日記

大体四日に一度の頻度で更新してる

21/11/15

 疲労とは何か。それは選択することの苦しみである。可能性の実現。それは選択の排除によって行われる。そして時には、一つの選択をした後になってやっと別の選択肢があったことに気がつくことがある。「あれがあったならば、これもあったのではないか」「何故それであってこれでないのか」「俺はああすることも出来たのではないか」など。疲労するということは、あったかもしれない世界に病むということだ。疲労した人間はもはや何も実現することが出来ない。あるいは何も実現する気になれない。実現した後に生まれる可能世界への焦燥を味わいたくないからだ。

 あったかもしれない世界、選択したかもしれない世界線。しかし、それを拒んだのは他ならない私である。可能世界の数々が頭の中に浮かび上がる。そしてそれを思う度に、後悔に悩まされる。こうして疲労した者は、最早何も実現することが出来なくなる。ただただその場から動けなくなるばかりだ。

『消尽したもの』の中で、ドゥルーズはこの疲労の問題に対比するようにして「消え尽くすこと」、つまり消尽することについて書いている。消え尽くすものとは、何よりも先ず可能性を排除しようとするものだ。消尽したものは最早いかなる可能性も所有することが出来ない。だからこそ、それは「消え尽くすもの」ではなく「消え尽くそうとするもの」と言い換えることも出来るかもしれない。

 それはある意味では死に向かうということでもある。何故なら、可能なことを消し尽くそうとするならば、自ずと潜在的なものも消し尽くそうとするからだ。可能性と潜在性は互いに混じりあっている。 ならば可能なことを排除し、実在するものをも排除しなければならない。「あったかもしれない」世界が実現する時、かつてこちらが思いもよらなかったものがそこに含まれていたりする。可能性を考えるだけでは決して実在を知ることの出来なかったものが含まれている。だから消尽したものは可能なことだけでなく、潜在的なものまでもを排除していく。

 それは身体が衰弱していくことをも意味している。学習することには欠損が、衰弱が付き物である。あるいはむしろ、人は欠損と衰弱を通してしか、何かを学ぶことが出来ないのかもしれない。可能なことを尽くそうとするならば、この身体において行動する以外に他ない。しかし可能なことを実現すればするほど、他の世界線の可能性に人は苛まれていく。ならばそれすらも尽くそうとしなければならない。消尽したもの、消え尽くそうとするものは疲労の先にいるのである。身体は衰え、筋肉は捻れ、四肢は裂かれる。やがて消尽したものは部屋の隅にうずくまり、あるいは両手で顔を覆い、椅子の上で縮こまろうとする。一切を尽くそうとすることによって、身体は消尽していく。しかし、それによってしか得られないものが、この世にはあるのかもしれない。

 そしてもしかすると、人によってはそれしか求めないのかもしれない。生きている内に、消尽することによってしか得られないものだけを望んで。

「夜がくる。彼は夢を見るだろう。眠ってしまうと信じるべきだろうか。むしろ眠りは夜を裏切ると述べるブランショを信じよう。何故なら眠りは、夜が二つの一日を中断することを、翌日が前日に継続することを可能にするからだ。人はしばしば、白昼夢や目が覚めたまま見る夢と、寝ている間に見る夢とを区別するだけで満足する。こうして人は第三の、恐らく最も重要な状態を捉えそこなうのだ。それは不眠(これだけが夜にふさわしい)と、不眠の夢(それは消尽に関わる)である。消尽したもの、それは眼を見開くものである。我々は眠りながら夢を見ていたが、今や不眠の傍らで夢を見る。(……)夢とは不眠を守る夜警で、不眠が寝るのを邪魔するのだ。不眠とはうずくまった獣で、昼よりも遠くにのさばり、夜のように硬く身をひきしめる。」

 ドゥルーズは哲学と芸術を同一視していた。音楽の偉大さは、自分がそれまで抱かなかった感情を与えてくれる点にある。失恋ソングを聴いていると、別に失恋した訳でもないのに感傷的な気分になってくる。絵画の偉大さは、自分がこれまで気づかなかった世界の美しさを教えてくれる点にある。モネの睡蓮の絵を見た後では、きっと睡蓮の花を見かける度に、そこに詩的な美しさを見出すだろう。

 このように、芸術作品の本質は感じ方の拡大にある。音楽は聴覚不可能なものを聴覚可能にする。絵画は視覚不可能なものを視覚可能にする。これまで感動的でなかったものを、芸術は感動的にする。感動すること、それは新しい物事の見方を、新しい世界の捉え方を獲得するということである。

 ここで芸術と哲学は繋がり始める。何故なら、哲学の目的とは、思考不可能な諸力を思考可能にすることだからだ。哲学の本質は、新しい考え方の発明、より創造的で、より強度のある論理の発明である。それは芸術と同じように、新しい物事の味方を、新しい世界の捉え方を可能にする。そしてそこから、更に豊かな知性や、更に美しい言動が可能になる。だからこそ、ドゥルーズは次のように書くのである。「哲学は、絵画や音楽と同じように、創造的な芸術だと、私には思われる……」

 私自身は、まさに彼の哲学の芸術的な美しさに魅せられた人間のひとりである。ドゥルーズの著作を読むと、まるでミケランジェロの絵画のように肉感的な躍動を感じる。しなやかで、力強く、今にも彫像が動き出すかのような生々しさを感じるのだ。翻訳でしか読んでない人間がこのように言っても、あまり説得力が無いかもしれない。しかしそれでも、た だ一つ言えることがある。それは、私はドゥルーズの本を共感しながら読んでいるということだ。

 共感。この世の中で、共感よりも強く物事を理解する手段はない (もっとも、だからこそ共感が錯覚を生みやすいのも事実だが)。私はドゥルーズ哲学を、我が身の事として、まるで実生活における事件のように捉えて生きてきた。そして恐らく、この理解の仕方は間違っていない。ドゥルーズを経験的に理解することは可能である。

 共感することは、自分が感じていたことを、自分よりも上手に言い表してくれるものに出会った時に生じる。私がドゥルーズの本に共感したのは、まさにドゥルーズが私のために書いてくれたからだ。私が言いたかったことを、しかし彼のように言うことの出来なかったことを、彼が私の代わりに語ってくれた。だからこそ感動したのである。ああ、俺はひとりじゃない。俺には友がいる。俺と同じ考えの人間は他にいる。俺だけじゃない。

 ドゥルーズは何かのために書くことの大切さを幾度か語ったことがある。それはつまり、その何かを思って書くということだ。私は私と同じ人間のために書く。ロマン・ロランベートーヴェンの内に「ひとりの友」を見出したように、自分から遠く離れた友のために書く。何故なら、共感すること、感動することは、たとえ国や時代が違えども、自分から遠く離れた場所に、自分と同じ人間を、自分の友達を発見することだからだ。それは何の繋がりもなく、一見すると遠く離れた星々の間に、星座が見出されるのと同じである。