21/11/21

 全てが遅い。あまりにも遅すぎる。それはヴィスコンティの『山猫』を貫くテーマである。時代が変わり、新勢力が台頭する。革命戦争が勃発し、旧勢力は没落する運命にある……。バート・ランカスターが演じる主人公は古い世代に属し、彼は貴族の大公である。にも関わらず、彼はそれに抵抗しない。時代の変化を肯定し、歓迎する。そして花火の明かりに照らされながら、ひとり変わりゆく世界を静観している。

 ならば彼は新しい世代に自らを寄せていくのか。否、彼はそれもしないだろう。決して。次世代の人間から誘いが来たとしても、優にそれを断ってしまう。まるで自分が、あるいは自分たち貴族が滅ぶことに、何の躊躇いもないかのようだ。次世代の人間は困惑する。彼の有能さを評価しているからこそ、新しい世界においても彼は必要とされて然るべしだ。だから何とかして彼を説得しようとする。しかし、主人公はそれを真に受けない。

 やがて暖炉の前に腰掛けて、燃える輝きに魅せられながら、語る。「忘れ去られたい」と。彼は知っていた、自分の内に死への欲求があることを。彼は止まった時の美しさに魅せられていた。そしてその美しさは、決して新世代の人間には理解できなかった。点滅する暖炉の輝きに近づけど、それが見えなかった。結晶のごとき輝きは主人公以外を照らさないのである。彼は時間の結晶に、記憶の結晶に閉じ込められていた。美しくも不透明な結晶イメージの奥底に沈潜しながら、力を失われ、静かに死を目前にしていた。

「眠りだよ、長い眠りを求めているのだ。そして揺り起こすものを憎む。贈り物に心を動かすこともない。それに私は信じておらぬ、新しい王国の贈り物とやらを。我らの願望は、忘却だ。忘れ去られたいのだ。逆に見えても、実はそうなのだ。血なまぐさい事件の数々も、我らが身を委ねている甘い怠惰な時の流れも、全て、実は官能的な死への欲求なのだ……」

 次世代の人間は語る。「それは誇張だ」と。しかし主人公は自分が真実を語っているのだと信じて疑わない。結局、彼は古い世代と共に滅びることを選ぶ。新世代の人間を見送る際、彼は次のように語る。「続くべきでないものが永遠に続く。人間の永遠などたかが知れたものだが、変わったところで良くなるはずもない。(……) 我々は山猫だった。獅子だった。しかし、今や山犬や羊どもが取って代わる。そして、山猫も獅子も、また山犬や羊すらも、自らを地の塩と信じ続ける。」

 この後、あの有名な舞踏会の場面が始まる。映画ファンなら誰もが一度は耳にしたことのある、『山猫』の舞踏会の場面。

 ああ、実に美しい映画だ。実は先日、初めてこの映画を観た。もう二年近く観ることを夢見ている映画であったが、ついにDVDを購入したのである。ヴィスコンティは戦後イタリアを代表する監督であり、今なお根強い人気を持っているから、やがて何処かで再上映されるだろうと思っていたのだが、結局一度もなかった。だからついに買ったのである。レンタルショップにもストリーミングにも置かれてないのだから仕方ない。高い買い物だった。ただのDVDに五千円も払わなければならないなんて。しかし、ブルーレイで購入した場合、値段は七千円を超える。だからこれでもマシな方だというわけだ。

 ヴィスコンティと言えば、ドゥルーズが『シネマ2』の中で極めて美しい数ページを彼のために割いている。長くなるが、ここで一度それを抜粋しようと思う。


 “考えなければならない最後の状態は、崩壊する[時間の]結晶である。ヴィスコンティの作品はそれを語っている。その作品は、ヴィスコンティが自分につきまとう四つの基本的要素を、多様な関係に従って区別すると同時に機能させることができるようになった時、完璧の域に達した。

 第一に、富豪やかつて裕福だった貴族からなる貴族的世界。これは結晶的だが、〈歴史〉や〈自然〉の外にあり、神による創造の外にあるが故に、総合的結晶と言えよう。『山猫』の神父はこう説明する。我々があのような金持ちたちを理解できないのは、彼らが自分達に固有の世界を造ったからであり、その法は我々には把握出来ず、我々にとって二義的にさえ見え、また時宣に適っていないとさえ見える事柄が、緊急性や途方もない重要さを持っており、彼らの動機は常に未知の宗教の儀礼のように理解を超えているからだ (こうして[『山猫』の]老大公は自分の別荘に復帰し、ピクニックを指揮する)。

 この[貴族的]世界は芸術家 - 創造者のものではない。確かに『ベニスに死す』は音楽家を登場させているが、まさにその作品は知的で頭脳的すぎるのだ。これはまた単なる芸術愛好者の世界でもない。むしろ彼らは芸術に取り囲まれており、芸術を作品としても生としても深く「知っている」のだが、『家族の肖像』の教授の場合のように、この知識が彼らを生からも創造からも引き離してしまう

 彼らは自由を引き合いに出すが、その自由を空虚な特権として享受しているのであり、この特権はよそから、自分たちがその子孫である先祖や、自分たちが取り囲まれている芸術から由来している。ルードウィヒ二世は「自分の自由を証明すること」を欲するが、真の創造者、ワーグナーは別の種族であって、実際は遥かに散文的であり、それほど抽象的ではない。ルードウィヒ二世は、疲労困憊した役者から役を奪うようにして、次から次へと役を欲する。大公がピクニックを支配するように、芸術と生からあらゆる内面性を奪ってしまう運動の中にあって、彼のいくつもの無人の城を支配する。

 ヴィスコンティの天才は、『夏の嵐』のオペラ、『山猫』のサロン、『ルードウィヒ 神々の黄昏』のミュンヘンの城、ヴェネツィアのグランドホテルの部屋、『イノセント』のミュージックルームといった、しばしば赤と黄金の、大場面ないし「構成」において極まる。それはまさに貴族的世界の結晶性のイメージである。しかし、第二に、こうした結晶性の諸環境は、それらを内側から蝕み、暗く不透明にする崩壊の過程と切り離せない

 ルードウィヒ二世の虫歯、『家族の肖像』の教授を混乱させる家庭の腐敗、『山猫』の伯爵夫人の愛の汚辱、ルードヴィヒ二世の愛の汚辱、そしてバイエルン家の至る所に見られる近親相姦、『熊座の淡き星影』のサンドラの帰還、『地獄に堕ちた勇者ども』の忌まわしい言動、至る所に見られる殺人や自殺の渇望、あるいは老大公がシチリア全体について語る忘却や死の欲求などだ。理由は貴族達が破産しかかっているからばかりではない、その迫りつつある破産は結果に過ぎない。これは、消え去った過去が、それにも関わらず人工的な結晶の中で生き残り、そこに彼らが沈潜する間に彼らからあらゆる力を奪いながら、彼らを待ち構え、飲み込み、取り押さえるからなのだ。それがまさに『熊座の淡き星影』の冒頭の有名なトラヴェリングであって、それは空間内の位置変化ではなく、出口のない時間の中への沈潜である。

 ヴィスコンティの大構成は、飽和して、それによって不透明化する。すべてが紛糾し、『イノセント』の中では二人の女性が識別不可能となるまでに至る。『ルードウィヒ』や『地獄に堕ちた勇者ども』におけるように、結晶は不透明化の過程と不可分であり、そのせいでついに青や紫の陰気な色調や、神々の黄昏ないし英雄の最期の王国としての月の色調が勝利をおさめる(したがって、太陽 - 月の運動はドイツ表現主義や、特にフランス派におけるのとは、全く別の価値を持つ)。

 ヴィスコンティの第三の要素とは、〈歴史〉である。というのも、当然ながら歴史は崩壊を裏打ちし、それを早めたり、説明したりさえするからだ。つまり戦争、新勢力による権力奪取、旧階層の秘密の法を見抜こうとは思わずに、それを消滅させようと思う新富裕層の上昇。しかしながら、〈歴史〉は[時間の]結晶の内的な崩壊とは一致することなく、自律的なファクターであり、歴史に対してヴィスコンティは、ある時には壮麗なイメージを捧げ、またある時には省略的で画面外にあるためかえって強烈な現前をもたらすのである。

『ルードウィヒ』の中で、我々は〈歴史〉をほとんど目にすることはなかろう、ルードウィヒ二世がそれをまったく無視しようとするからこそ、恐らくいっそう強く戦争の恐怖とプロシアによる権力奪取を間接的に知るだけである。〈歴史〉は戸口で唸っているのだ。『夏の嵐』では、反対に歴史はそこに現存し、イタリアの運動、有名な戦争があるが、ガリバルディー派の人々は省略されている。『地獄に堕ちた勇者ども』の中だと、ヒトラーの社会的上昇、SSの結成、SAの根絶がある。だが、現前しているにせよ画面外にせよ、〈歴史〉は決して背景ではない。それ[〈歴史〉]がとらえられるのは、斜めから、地表すれすれの視角においてであり、昇ったり沈んだりする光線に照らされて、すなわち結晶をカットし、その素材を非有機化し、不透明化を促進し、面を散乱させることになるレーザー光線に照らされてであり、ヴェネツィアのペストか、未明におけるSSの静かな到来のように、外的であるだけにかえって強力な圧力のもとにおいてである……。

 そして更に第四の要素があり、この要素は他の要素の統一性と循環を確定するがゆえに、ヴィスコンティにおいて最も重要である。それは何ものかがあまりに遅く到来するという観念、あるいはむしろ啓示なのである。然るべき時に捉えられたなら、それは結晶イメージの自然的崩壊と歴史的風化を避けることができただろう。しかし、それを然るべき時に到来できないようにするのは、〈歴史〉と〈自然〉自体であり、結晶の構造なのだ。

 既に『夏の嵐』において、「遅すぎる、遅すぎる」と破廉恥な愛人は叫んでいたが、遅すぎるのは、我々を分裂させる〈歴史〉を前にしてでもある。『山猫』の大公は、「遅すぎる」がシチリア全体に響くのを聴く。ヴィスコンティがまわりの海を決して見せないその島は、自然と歴史の過去の内に実に深く埋もれているので、新しい体制でさえこの島のために何もなすすべがないだろう。「遅すぎる」は『ルードウィヒ』の宿命であって、そのイメージに絶えずリズムを刻むだろう。遅すぎる時に到来するこの何ものかは、常に〈自然〉と〈人間〉の統一性の感覚的で官能的な啓示なのである。

 したがって、それは単なる欠如ではなく、時間自体の一次元なのだ。それは時間自体の次元として結晶を貫きながら、[時間の]結晶の内部に重々しく生き残っているような過去の静的な次元に対立する。それは、不透明なものに対立する崇高な光明だが、遅すぎる時にダイナミックに到来するということが、その性質なのである。感覚的啓示と同様、「遅すぎる」は世界ないし媒質として、自然と人間の統一性に関わっている。けれども、官能的啓示と共に、統一性は個人的なものとなる。

 それは『ベニスに死す』では、音楽家が自分の作品に欠けていた官能的な美というビジョンを少年から受け取る際の、衝撃的啓示である。『家族の肖像』では、教授が若者のうちに、やくざな男、自然上の自分の愛人、文化上の自分の息子を発見する際に覚える、耐え難い啓示である。既にヴィスコンティの最初の映画、『郵便配達は二度ベルを鳴らす』において、同性愛の可能性は救いのチャンス、息の詰まる過去から抜け出すチャンスとして現れていたが、遅すぎるのだった。

 しかしながら、同性愛がヴィスコンティの強迫観念だったとは思えない。『山猫』の最も美しいシーンの中で、老大公が救われうるものを救おうとして、甥と成金[ブルジョア]の娘の結婚を承認した後、ダンスの時に、この娘から啓示を受ける。彼らの眼差し同士は結びあい、互いのため、互いに交わされ、かたや甥は奥に追いやられて呆然とし、このカップルの輝きに彼自身も魅了されているというのに、しかしこれは老人にとっても少女にとっても遅すぎるのである

 ヴィスコンティは彼の創作の始めから、こうした四要素を巧みに制御しているわけではない。しばしば、それらは上手く区別されず、互いに絡みあっている。しかし、ヴィスコンティは探し求め、予感している。

『揺れる大地』の漁師たちが、成金[ブルジョア]たちに対立して、生来の貴族階級を証す緩慢さ、厳かさを見せつけているということは、しばしば指摘されてきた。漁師たちの試みが失敗するのは、魚の卸商たちのせいばかりでなく、古い過去の重みが彼らの企てをもはや遅すぎるものにするからである。ロッコ自身[『若者のすべて』の主人公]は「聖者」であるばかりではなく、貧農の一家にあって生来の貴族である。けれども、村に戻るには遅すぎるのだ、都市が既にすべてを腐敗させ、すべてが不透明となり、〈歴史〉が既に村を変えてしまったからである……。

 それでも『山猫』によって、ヴィスコンティはその四要素[貴族的世界、それを蝕む崩壊の過程、崩壊を促進する〈歴史〉、そして「遅すぎる」ということ]の充全な調和に到達したように思われる。悲痛な「遅すぎる」は、エドガー・ポーの「ネヴァーモア」と同じくらい強度になる。

 この事は、彼がどのような方向でプルーストを翻訳[映画化]しえたかということも説明している。だからヴィスコンティの嘆きを、彼の一見して貴族的なペシミズムに還元することはできない。我々が苦痛と苦悩から彫像を引き出すのと同じように、芸術作品は嘆きから作られるのだ。「遅すぎる」は芸術作品を条件付けるのであり、しかもその成功を条件付けている。というのも、ある一点を除いて、あらゆる点に対して遅くやって来すぎるということが芸術の特性である限り、〈自然〉と人間の感覚的で官能的な統一性は、優れて芸術の本質であるからだ。

 この一点とは、失われた時である。バロンセリが言っているように、〈美〉はヴィスコンティにおいて真に一つの次元となり、「第四次元の役目を果たす」。