21/12/21

 十月末から書いていた小説をやっと書き終えた。合計約六万字であるが、正直、こんなに苦労するとは思わなかった。明日から一日一章ずつ投稿して、年内には全編読めるようにするつもりである。

 書いたものについて、公開する前から強いて言いたいことがあるとするなら、それはあまり重く捉えないで欲しいということだ。多分私は、ひとに誤解を与えやすい性格をしている。あるいは、好んでひとに誤解を与えていると言っていいかもしれない。今日まで、このブログを読んだ人のなかで、私のことを暗いやつだとか、神経質な人だとか、もしくはもっと好意的に、繊細な人だと思ってくれた方もいるかもしれない。しかし、実際の私はそんなこともない。ガサツで、あんまり深く物事を考えられない、嫌な奴である。

 哲学が好きだと、よく「考えることが好き」だとも勘違いされる。しかし、他の人はどうかわからないが、少なくとも私は考えるのが苦手である。特にひとの気持ちを考えるのが苦手で仕方ない。哲学(と言っても好きな哲学者は限られているが)のいい所は、考えればある程度答えが出るところである。よって他人の感情の嫌な所は、考えても答えが出ない点にある。

 あらゆる関心は無関心に至るための過程である。本来、自然は私達に無関心である。そこには善もなければ悪もない。人はまさに関心を通して無関心な自然の本質を垣間見るが、しかしその本質を垣間見た瞬間、持っていた関心は薄れていくものである。人はよく、無関心を悪だと考えたがる。しかし、私はそうは思わない。関心を寄せられているということは、観客がいるということだ。つまり、それは自分を監視する人間がいるということでもある。無関心というのは、誰もこちらのことを気にしないということ、つまり現世における究極の自由を意味する。私は自尊心の塊だから、ある程度他人から尊敬されたいと思っているが、一方で、自分に対しても、他人に対しても、ある程度無関心を大事にしたいとも思っている。他人の目がないところで、人は初めて自由になれる。他者なき世界に至ることで、人は初めて能動的になれる。その世界をこちらが望むか望まないか、それはまた別の問題であるのだが。

 ドゥルーズはかつて「哲学とはある程度独我論的なものである」と述べたことがある。確か『差異と反復』の結構後半の方で触れていた。その考えは、恐らく晩年に至るまで変わっていない(『哲学とは何か』の中でも似たような話題が出てくる)。以前、読書会で「ドゥルーズは自と他の境界線をどう考えたのか」と質問されたことがあるが、なるほどドゥルーズは自と他を明確に区別はしなかった。しかし、自と他の境界線がない世界とは、いわば究極の孤独を意味する。そこには自分しかいないのだから。私は哲学者ではないから、そこまで到るつもりはないが、ただ「ある哲学の完成」とは、まさにそういうことなのだと思う。ひとつの哲学が完成する時、それは、自分しかいない世界に到達すること、究極の意味での孤独にたどり着くことである。自分の観点を徹底した先にしか思考の発展がないのならば、哲学の行き着く先は紛うことなき孤独なのである。

 話が逸れてしまった。書いた小説については、皆好きに読んで欲しいと思っている。ただ、さっきも書いた通り、私が病んでるとか、悩んでるとかは、あんまり考えないで欲しい。もっとも、そんな心配をかける人がいればの話だが。知人友人で、恐らくこのブログを読んでくれてると思われる方で、私の書く内容を読んで、心配気味というか、結構気を遣った態度をとってくれる人がいる。そういう人を前にすると、何だか申し訳なくなる。私はあなたが思ってるよりもずっと馬鹿だし、脳天気な人間である。そう言ってやりたいが、そうすると今度は向こうに更に変な気を遣わせるのではないかという気持ちになってしまい、接し方が難しい。

 今、私の周りには、会う頻度は異なれど、私を信頼し、慕ってくれる存在が多少なりともいてくれる。私は、そういう人達を失いたくないと思っている。人が自分に対してどんなイメージを抱いているかは、正直に言うと、あんまり考えたくない。めんどくさいし、疲れるから。ただ、それでも考えることがひとつある。それは、ざっくり言うと以下の通りだ。

 私はよく、過去の自分を否定する。ああ、あの時の俺は馬鹿だったなとか、とんだ恥知らずだったなとか。このブログがいい例だ。もう四年近く書いているが、半分以上の記事を非公開にしている。理由は単純で、読み返すととてもじゃないが目を通せない代物ばかりだからだ。あまりにも考え無しに書いていたというか、内容が気持ち悪くて吐き気がするものが多い。よくこんな生き恥を晒してのうのうと生きていたなと思う。我ながらゾッとするほどだ。

 このように、今日まで私は自己否定を繰り返すことで生きてきた。そして、それが間違っているとは微塵も思っていない。

 ただ、間違っていないとは思うのだが、ふと別の考えがよぎったのである。私が「読めたもんじゃない」と思ったものを、中には好んで読んでくれている人がいたのである。まあ、ごく少数かもしれないが、どうやらそういう物好きもいるらしい。そういう人達のことを想うと、ちょっと申し訳なくなるというか、悲しくなる。自分が軽蔑しているものを、向こうは愛してくれているわけだから。

 もしかすると、過去の自分も、私が軽蔑して捨て去った自分も、そんなに悪いものじゃなかったのかもしれない。

 先程「あらゆる関心は無関心に至るための過程である」と書いた。それはドゥルーズについても言えることだ。「読まざるを得ない」と思うものがあるからこそ読んでいるが、正直に言えば、早くほかの作家の本をもっと読みたいし、ドゥルーズに対して無関心になれたらと思っている。今年は、ドゥルーズの著作と『マルテの手記』以外の一切の書物も通読することがなかった。ドゥルーズを読むのに夢中になったせいで、手を伸ばす予定を延期した本が沢山ある。そのせいで、私がどれだけ困っていることか。そう、あらゆる関心は無関心に至るための過程である。私はドゥルーズ哲学を徹底することで、ドゥルーズ哲学の外に出たいのだ。

『マルテの手記』について、今月、二年ぶりに通読した。およそ日本語に訳された外国の書物の中で最も美しいものである (私は新潮文庫から出ている大山訳の『マルテ』を指している)。自分の小説を書く上で参考にしたいから開いたのだが、読み始めると、まるで初めて読んだときのような感動の連続であった。こうして考えると、昔の自分は何も理解出来ていなかったんだなと思う。私はリルケを、『マルテの手記』を誤解していた。これがどれほど優れた書物であるか、それを見誤っていたのである。

 ああ、出来ることなら、いつか本格的なリルケ論を書きたい。詩人を論じると言うと、どうも感傷的になるきらいがあるが、そういった一切の弱さ、甘えを排した、硬質で、力強い、科学的なリルケ論を書きたい。そのためには彼の書簡を一通り読み漁る必要があるし(リルケは手紙が好きだったから、彼の書簡は膨大な量に渡る)、ドイツ語を深く理解している必要がある (哲学者はともかく、詩人を論じるにはその言語に精通しているのは最低条件である)。間違いなく、少なく見積っても十年はかかる作業である。今はまだ出来ない。明らかに力量が足りないから。しかし必ず、必ず書いてみせる。もう願望だけを垂れ流すのはやめにする。絶対に書いてみせる。

 書いた小説について言えば、結構面白い自信がある。が、書き終わってから数多の課題があることに気がついてしまった。そういう意味では、発表する前から、これが失敗作であることを痛切している。その点については、また後日触れるとして、今はただ、ネットに小説を掲載することの意味について書きたいと思う。

 本当は、今日書き終わった小説を何処か有名な文学賞にでも応募するつもりでいた。が、大抵のサイトの注意事項欄に「未発表原稿に限る」と書いてあった。唯一、発表された原稿でも応募可能な新人賞があったが、それも「二万字以内に限る」とのことだった。正直に言うと、できる限り早く、可能な限りたくさんの人に読んで欲しいから、今回の賞の応募は見送ろうと思う。自分の出来る限りのすべてを注いで書いたから、早く誰かに読んで欲しいのである。

 が、それで終わらせるつもりはない。来月からは、毎月一遍ずつ、十ページ二十ページ程度の短編小説を書いていくことにした。その中で、出来のいいのを賞に応募する予定である。嬉しいことに、頭の中には書きたい案が沢山ある。それを一つ一つ実現していくことにした。これも予め宣言しておこうと思う。結局一遍も書かないなんてことがあったら、自分が恥ずかしくて仕方なくなる。逃げられないよう、人目につくここで釘をさしておこう。

 良くも悪くも、私はネット世代の人間である。ただ、正直に言うと、自分はあまりSNSが好きではない。皆がいつも他人の目を気にして演技をしているし、不愉快な、馬鹿の集う場所だと思っている。一方で、SNSを含むインターネット全般が、私達に新しい出会いを可能にしたのは事実である。それは人間関係だけでなく、本や音楽、映画についても言えることだ。少なくとも、YouTubeSpotifyがなかったら、私はこんなに広く音楽を聴くことは出来なかっただろう。事実、ネット世界の発達は私を含む大勢の人に多くの恩恵をもたらした。インターネットはかつて不可能であった出会いを可能にしたのである。それは実にロマンチックな話だ。

 恐らく、我々ネット世代の直面するべき課題はそこにある。インターネットの与えた恩恵を認めながら、どれだけそれを批判するか。その遺産を受け継ぎながら、いかにそれを否定するか。SNS以降の世界の病理を、いかに乗り越えていくか。

 まあ、それはさておき、ネット上に自作の小説を公開することはそれなりの意義があるように思われる。意外な人がそれを読むこともありえるだろうから。そこから、本来繋がりがなかった二つの点が繋がることも可能になるのだ。真に創造的な思考が生まれるのは、まさにその時である。奇跡が起これば、夜空には新しい星座が生まれる。私の書いた小説のおかげで、そんなことが起きたらなと空想している。

 民衆的で科学的な哲学。ドゥルーズはかつてヒュームの哲学をそう評したことがある。私の小説も、いつかそんな風に親しまれたらいいなあと期待している。これは私の夢である。ある種の民衆的で科学的な小説が実現するのだ。あとは「可能な限りたくさんの人に読んで欲しい」と書いたが、そんな大々的に広まって欲しいとも、実は思っていない。ただ、気に入ってくれた人たちの間で、こっそり読んでもらえたらないいなあと思っている。感想も特にいらない。ただ、心に響いて、「ああ、いいなあ」なんて思っていただけたら、この上ない幸福である。

 矛盾しているように見えるだろうか。

 私は変わってしまった。昔に比べて、醜い人間になったかもしれない。それでも、私が変わる前を知っていて、そして私の前から去ってしまった人にも読んでもらえたら、幸いである。確かに私は変わってしまった。しかし本質的には何も変わっていないのだということを知ってほしいから。

 無論、それが書いた目的のすべてではないのだが。