《表現と結晶》一・2

 夜。一切が闇に沈もうとする今、満月だけが私を引き止めてくれる。月光には不思議な作用があると思われる。夜は白銀のヴェールに包まれて、その裏にある天体の輝きを想起させてくれる。生憎、私の住む部屋からは星が見えない。街灯が星の在り処を隠してしまうのだ。

 私は今、天体から遠ざかり、たった一人暗い部屋のなかにいる。私を照らしてくれるのはあの月光と、机の上にある安物の電灯だけだ。

 そして電灯はチカチカと点滅していた。その周りを一匹の蛾が飛び回っていた。

 思えば仕事を辞めてから一ヶ月が経とうとしている。コンビニで口座を確認してきたが、そろそろ貯金も尽きそうである。そろそろ何かをしなければならないと思いながら、何もすることが出来ない。もとい、何もする気が起きないのだ。

 一旦筆を置いて、両手に顔を埋めた。手で顔を覆うことには不思議な安心感がある。まるでそれまで自分が被っていた仮面が剥がれるかのようだ。あるいはむしろ、この両手の中が自分の顔の居場所だったのだと教えられるような気がするのである。

 そう、書き忘れていたが、私は一ヶ月前に仕事を辞めたのだ。一年くらいだろうか、働いた期間で言えば。短いように感じるかもしれないが、これまで職を点々としていた身からすれば、長続きした方である。悪い職場ではなかった。仕事の内容も、自分に合っていたと思われる。同僚との付き合いも良好だった。しかし辞めてしまった。何故か。実を言うと、それが私自身よくわからないのである。

 疲れた。あるいは、めんどくさかった。強いて言うなら、それが理由かもしれない。恐らく何かが自分の中で限界を迎えていた。しかしそれが一体何なのかは、自分でもよくわからなかった。あるいはわかろうとしていないだけなのかもしれなかった。

 こんなこともあろうかと、口座には十数万だけ貯金があった。家賃、光熱費、その他生活費を考慮して、これがあれば一ヶ月は働かずにやっていけるだろうと思う金額であった。これは今日までの自分の行動を考慮しての判断であった。今回のように、突然、何の前触れもなく仕事を辞めることが何度かあった。そしてまた同じことを繰り返してしまったわけだ。一年も同じ所で働くなど、自分としては初めてだったから、もう二度とないだろうと思っていたのに。

 こうして、過去の私の判断が正しいことが証明された。唯一間違っていた点と言えば、あまりにも楽観的であったということだった。もう仕事をやめてから一ヶ月が経とうとしている。なのに、何もする気が起きない。いつもは生活をやっていくため、すぐ次の仕事のことを考えていたのに。もう一ヶ月近く、何もする気が起きないでいる。久しぶりに身体を起こしたと思えば、仕事を探すわけでもなく、こうして何にもならない文章を書いている。それを小説と題して……。

 一体これから自分はどうするべきなのか。そんな問いも頭に思い浮かばない。今の望みはただ一つ、書くことである。可能な限り、一切を書き尽くすということだ。私は今日まで、作家になることに憧れ生きていた。しかし一度も小説を書いたことがなかった。あるいは書こうとしても途中で執筆を断念した。それは、今の自分には見合うだけの能力がない、知識がないと思っていたからだ。しかし、私は間違っていた。自分の力が及ばないこと、自分の知らないことについて書かなければ、他に何が書けるだろう。自分の無知さ、自分の無力さの中にこそ、必ずや言うべきことがあるのではないか。思考するということは、思考の臨界点に直面するということだ。自分の知っていることと知らないことの境界線上でしか、人は何かをなすことが出来ない。無知と無力さを理由にすれば、それは書くことを延期することに繋がる。自分の手に負えないところにまで手を伸ばした時、自分でも思いもよらぬ言葉が口からこぼれる。それこそが新しい言語の産まれる時である。言葉は、語られる時に初めて自分の知らない姿に出会うのだ。

 時計を見ると、時刻は八時を迎えていた。この夜が明けるまでに、この小説を書き終えなければならない。どういう訳かはわからないが、そう思った。


 背もたれに寄りかかり、大きく身体を伸ばす。そしてふと、後ろを向いた。洗っていない服や、捨て忘れたゴミ袋が沢山転がっていた。天井ばかりを眺めて過ごしていたから気が付かなかったが、どうやら私の部屋は汚いらしい。しかし部屋が汚いことなんて、別に今に始まった話ではない。

 思えば子供の頃からそうだった。自分の部屋を持ったのは、確か中学生の頃だったろうか。少年だった私の部屋には、読めないのに背伸びをして集めた本の山と、同じくらいに大量のゴミ袋が転がっていた。しかしそれでも構わなかった。部屋に電気をつける時は、いつも机の上しか灯さなかった。そして、机の上だけが私の全てだった。それは一つの島であり、あるいは世界であった。本を開き、あかりにかざし、ペンを走らせ、ノートに書き殴ったあの日々を、一生忘れることはないだろう。

 少年の日の思い出。不愉快で、嫌な時代であった。私は地味で、辛気臭い顔をした、なんの取り柄もない子供だった。そのくせ人一倍偉そうにしていた。同学年の子供を皆馬鹿だと思って見下していた。無論、友達はいなかった。いじめられはしなかったが、ひそひそ話はよく聞こえてきた。よくよくそれにむかついていた。しかし細い身体をしていたから、何をすることも出来なかった。変に言い返して痛い目を見るのが怖かった。体育の時間は絶望的だった。皆が私を笑いものにしているような気がして、悔しかった。

 私の学校では、冬になると毎年必ずマラソン大会が開かれた。その学校で二度目のマラソン大会を控えた時、私はある決心した。これから毎日ランニングをして、来るべき大会に控えよう。そう思った理由は単純である。私を馬鹿にした同級生を見返したかった、自分が力ある人間であることを示したかった。そして何より、弱いものではないことを自分に言い聞かせたかった。

 しかし、問題は初日から起こった。普段しない運動を無理にしたから、走っている最中に肉離れを起こしたのである。夜中の十時頃のことであった。秘密の特訓は中止せざるを得なくなった。意気揚々として家を出たのに、足を引きずりながら帰路に着いた。息をぜえぜえさせながら歩いていると、普段は寄らないが、以前から存在は知っていた公園を見かけた。私はその公園の中に入った。辺りを見渡すと、そう遠くないところにベンチがあることを知った。私はその方へと向かった。そしてベンチの前にたどりつき、思い切りよくその上に倒れ込んだ。

 最初は目を瞑っていた。次に右腕で汗を拭った。最後に腕をどけると、星が見えた。満天の星空だった。あまりにも綺麗で、思わず独り言を口にした。すごい。こんなに星が綺麗だなんて知らなかった。夜がこんなにも明るいなんて知らなかった。自分の頭上でこれほど多くの輝きが歌っているなんて知らなかったのだ。

 辺りは静かだった。人ひとり通らなかった。だからその時、この世界を支配していたのは、私の荒れた息遣いと、空中に広がる無限の万華鏡であった。空気は冷たかった。しかしそれすらも心地よかった。私はひとりぼっちだった。しかしもうそんな事はどうでもよかった。私には星があった。あの美しい天体があった。そして私とあの遠く離れた星の間には、既に星座の繋がりがあったのだ。私達は一つになっていた。

 少年の日の私は、それを心の底から信じていた。そしてあの時の感覚は、今も私の胸の内に残り続けている。


 光を透かす水晶玉は、一見すると美しい。しかしその内部は濁り、不透明で、何事も真っ直ぐ映し出さない。

 これは時間の結晶の構造である。もし結晶の底に沈潜していくならば、その間、私の力は奪われ、失われ、次第に無気力になるだろう。結晶のなかへとのまれてゆき、腐敗していくだろう。私の知る世界が、私を閉じ込める時間の結晶が、生からも、創作からも、私を引き離していく。 

 鏡をのぞき込む時、人は初めて現在の自分の姿を知ることが出来る。自らについて知ることは、反射する自分の姿をのぞき込むということだから。こうして人は、よく鏡の国に迷い込んでしまう。一切が乱射して、一切が反映し合う世界に。置かれた角度によって反映するものが異なるように、鏡は置き方によってこちらがかつて見えなかったものを可視化する。物事を知ろうとすればするほど、人は鏡を増殖しようとする。やがて一切が反映し合う中で、最早何が真実で、何が見せかけなのかがわからなくなる。現実と妄想、現在と過去、実在と可能性。その一切が濁り、混ざり合い、不透明になる。鏡の国の住人と現実世界の住人が識別不可能になるのだ。

 各瞬間ごとに、時間は二重化される。過去は現在によって構成される。現行のものに影響を受けた観点から、人は鏡をのぞき込むようにして過去を回想するから。そこには真実を含んだ過去それ自体と、それをのぞき込む現在によって生まれた過去のイメージが存在する。こうして時間は絶えず分裂される宿命にある。進行する現在、未来に躍動する時間と、沈潜する現在、過去に硬直する時間の二つにである。

 この時、時間の結晶が生まれる。どんな形であれ、人はこの結晶を所有しながら生きている。結晶を持たなければ、何かを理解し、把握することも出来ないから。自分が誰であるか、自分が何をするべきかを知るためには、確固とした記憶のイメージが必要だ。しかし、それは多くの人が「時間は私の内部にあるのだ」と思い違いすることに繋がる。実際は違う。むしろ私の方こそが時間の内部で生き、活動し、存在しているのだ。

 これは時間の恐るべき力である。時間が私を包み込む以上、真実の登場は時間の形式を持ってしか可能にならない。かつてはわからなかったが、今ならわかるということが沢山ある。時間の経過が、それを私に教えてくれるからである。時間の力は、見えなかった真実を可視化する。それは時間の残酷さをも示している。知りたくなかったこと、見たくなかったことさえも、時間は実在させてしまう。

 結晶を割らなければならない。美しい記憶、信じていた過去の思い出が、時間の力によって偽であると証明されてしまう。時間によって異なった真実の出現が可能になってしまう。それから逃れたいならば、時間の結晶のなかに閉じこもらなければならない。しかし、結晶は死しか引き止めない。そこにいては、いつまでも現在を、未来を生きることが出来ない。これこそ結晶を割る必要がある理由だ。結晶を割って、新しい記憶の方へと移動しなければならないから。

 引き出しを漁ると、かつての写真ばかりが出てくる。どれも、愛すべき思い出ばかりだ。しかしこのままでは、私は思い出達と共に死んでしまう。これらの写真を引き裂かなければならない。しかし、まだその勇気がない。人間は忘れる生き物だ。それが悪い事だとは思わない。これはニーチェも書いていたことだが、忘却とは癒しを意味するから。ならば、忘れえない記憶とは、癒し得ない傷のことである。

 しかし、これは少し誇張した表現かもしれない。そろそろ別の話題に移ろう。


 もし誰かがこれを見つけたら、一体何を思うだろう。誰がこれを小説だと思うだろうか。今のところ、物語の一つも書いていないではないか。

 そうは思いながらも、これでいいとも思っている。そのが正直なところだ。何故一つ一つの言動を説明し、理由付けしなければならないのだろう。真実とはいつも断片であって、全体ではない。意味と理由は人生によって与えられるが、人生それ自体に意味と理由があるわけではないのだ。

 しかし、もうこんな屁理屈もやめにしよう。それにしても一体、私はこれからどんな小説を書くのだろうか。あるいは一体、この小説をどのように終わらせるのだろうか。実を言うと、自分でもそれがわからないでいる。

 強いて言うならば、恋愛小説を書くつもりは更々ない。小説らしい小説、所謂「心理主義小説」とでも呼ぶべきものは、既にトルストイプルーストにおいて完成してしまっている。そして、私は既に両者が亡くなってから長い歳月を経た時代に生きている。ならば決して彼らのように書いてはならないのだ。

 それに、今どき恋愛小説を書こうとするのは一つの欺瞞だと言わざるを得ない。もはや誰もおとぎ話の純愛の話など信じていない。恋愛には嘘と駆け引きが付き物だからだ。昔からその事に気づいていた人もいる。スタンダールは既に、美しい恋物語の裏に潜む権力欲、虚栄心、闘争意識、復讐心の存在を事細かに描くことが出来た。その見事な筆致によって、それらの力の運動を浮き彫りにした。そして現代に生きる人間は、彼より遥か先に進もうとしなければならない。遠い昔にロマン主義の時代は終わったのである。

 自由恋愛には経済的な問題が存在し、今や恋愛は一つの経済的な機能を所有している。恋愛と資本主義の間には密接な関係がある。異性から恋愛的に眼差されるかどうかは、金銭と同様、社会に階級と格差を導入する。今や両性は、社会的地位、あるいは資産と同じくらい、自分の恋愛的な価値を気にし始める。誰かに愛されるかどうか、性的な価値が見出されているかどうかは、自分が他よりも価値があるどうかの価値判断の基準となる。恋愛経験があるかどうか、恋愛的に眼差されるかどうかは、それ自体その人と他者を差異化する装置として働く。だから現代において、恋愛は個々人の間に階級闘争を導入する。私の知る限り、この問題に言及した作家はウエルベックくらいしかいないが、しかし彼はあまりにも男性主観的なまなざしで物事を見ている (もっとも、それも彼の面白さの一つなのだが)。

 この問題の原因の一つとして、現行の社会において、女性が元々物質化され、商品化されているという点が挙げられる。グラビア雑誌の表紙を半裸の女性が飾ったり、男性よりも遥かに女性の方が容姿の美醜を気にしなければならないことは、まさに女性の身体が生まれた時から商品化されており、男性にはない物質的な価値が与えられていることを意味している。そして自由恋愛における経済的な問題は、男性が女性と同じような物質化、あるいは商品化を被ることから始まる。男女平等を求める運動は、決して女性を非商品化し、非物質化することを目的としないだろう。それは資本主義の経済システムに反するから。

 現行の社会において、我々男性は過去の自分たちのツケを支払わなければならない。否、恐らくそうする事でしか現代社会において男女平等は成立し得ないのである。

 やがて恋愛のゲームが始まる。男性は女性を、女性は男性を、スーパーの棚に並ぶ商品のように眺め、品定めする。この際、選ばれる対象は、自分にとって最も意味深いように見えるもの、最も価値のあるように見えるものである。プルーストは次のように書いたことがある。「私は彼女を愛するのではなく、彼女が内包している風景をも愛していた」。人は誰かを愛する時、相手が想起させる別のものをも愛している。あるいはむしろ、相手が想起させる別のもののために相手を愛している、と言ってもいいかもしれない。恋愛には暗号読解の作業が付き物である。突如、啓示のように現れた相手の言動、こちらに焦燥感を与える言動、そこに含まれた意味と真実を読み解くため、絶え間ない解釈の作業を始めることになる。恋する人は、詩人というよりも探偵に、警察に、あるいはスパイに近い。相手の一挙一動が、まるで自分に対して発せられた謎のように見える。彼らは恋人の嘘をかぎつけ、その裏にある真実を暴き出そうとする。そして相手の嘘が終わる時、恋愛感情もまた終わることになる。そこに最早自分が紐解くべき暗号が見いだせない以上、あの焦燥を煽る魅力も覚えることが出来ないわけだ。

 この嘘と暗号読解のゲームが自由恋愛の本質となるならば、ゲーム参加者はその規則を利用する以外に手立てはない。

 恋愛という階級闘争、経済競争のゲームにおいて、勝利者となるのは、より巧みな嘘がつける人間、他者を誘惑し、見せかけることが上手い人間であること。それは目に見えた話だ。恋愛関係というものは、お互いの利害の一致においてしか成り立たない。しかし利害の一致は、まさに相手が自分にとって価値があるもののように見えた時にしか決定されない。恋愛のゲームにおいては、いかに見せかけの存在であることが出来るかが問題となっている。そして必要とされるのは個々の人間ではなく、むしろ演じられるべき役割である。寂しがり屋の女性は、ある特定の人物を求めているのではなく、ただ自分の孤独を埋めてくれる役割を求めている。恋愛のゲームにおいて求められるのは、あるシチュエーションにおいて演じられる役割であって、私ではない。求められた演技が出来れば誰でもいいのであって、それが真実であるか嘘であるかはどうでもいいのである。

 欲望を埋めるために生まれた空白の升目と、そこを行き来する置き換え可能な他者。やがて役割を果たす人間がこの升目を埋めたかと思えば、別の人間がやってきて、より確かな演技をすることでこの升目を埋めようとする。恋愛においては、気取りと軽薄さが、嘘と駆け引きが付き物である。

 しかしそれでも、やはり別の愛し方も存在するのだと、私は心の何処かで信じている。誰かを愛するとは、置き換え不可能な他者に出会うこと、大多数の中からたったひとりの人間を見分けること、たとえ家族などのような狭いグループからであろうとも、かけがえのないものをその集団から抽出することである。

 こんな事をいえば、君は笑うだろうか。しかし、私は「恋愛小説を書くつもりはない」と先程述べたばかりではないか。だからこの話はここで終わりにしよう。

 しかしそもそも、何故人は小説を書くのだろう。あるいは何故、創作に携わるのだろう。有名になりたいからか。それはあるだろう。あるいは、単に芸術が好きだからか。なるほど、それもあるだろう。しかし、もっと他に大きな理由があるのではないか。人は書かざるを得ないからこそ書くのではないか。創らざるを得ないからこそ創作するのではないか。

 私を含め、作家に憧れて何かを書くという人は少なくない。しかし、大抵の夢追い人は、一つだけでなく他の夢も持っている。作家志望の若者もそうだ。その夢の大半は生活への憧れである。今よりも豊かな暮らし、幸福な家庭、愛すべき恋人、素敵な友人たち……。しかし人が書くのは、まさにそれらの夢に敗れた時からではないか。創作には挫折が付き物である。あるいはむしろ、人は挫折した時にしか、何かを書こうと思わないのかもしれない。人が芸術を見出すのは、生活の夢に敗れたからなのだ。

 
 恋愛とは甘い死への誘惑である。これは決して誇張した表現ではない。恋愛小説を書いてはならないのは、それが死への誘惑にさらわれることを意味するからだ。

 クンデラも書いていたが、幸福とは繰り返されることへの願望である。しかし、それこそ人が決して幸福になれない理由なのである。時間とは直線的であり、人は今日までの経験を踏まえないとその先にある出来事を経験することが出来ない。だから、同じことの繰り返しを生きないのである。もし幸福を望むのならば、生きることをやめなければならない(丁度トマーシュがテレザとの幸福のために自らの人生を諦めたように)。幸福とは停滞の中にしか存在しないのである。

 かつてロマン・ロランも似たようなことを指摘をしていた。少年ジャン・クリストフは、父の悲惨な死を前にして次のことに気がつく。「人生は容赦なき不断の闘いであって、一個の人間たる名に恥ずかしからぬ者となることを望む者は、眼に見えないあまたの敵軍や、自然の害力、濁れる欲望、暗い思考など、すべて人を欺いて卑しくし滅ぼそうとするところのものと、絶えず闘わなければならないことを、彼は知った。自分はまさに罠にかかるところであったことを、彼は知った。幸福や恋愛はちょっとした欺瞞であって、人の心をして武器を捨てさせ地位を失わせるものであるということを、彼は知った」。

 しかし恐らく、これらの甘い死への誘惑を通してしか、人は強靭な生を獲得できないのかもしれない。幸福への目眩、愛への憧れ、その二つの喪失。これらを通してしか、人は成長できないかもしれない。


 私は空っぽな人間だ。今日までの人生を思い起こすと、その殆どが空白であることに気がつく。昔のことを思い出しても、バラバラになった破片の一つ一つしか思い出せない。記憶が明瞭になってくるのは、都会での生活を始めてからである。私は大学進学のために上京してきたのだ。しかし、その大学生活もざっと二年で終えてしまった。友人が居ないわけでもなかった。あるいは、友人はいたが、誰にも心を開くことが出来なかった。ただ一人、Xだけは違った。しかしXを知ったのは、私が既に大学を辞める寸前であった。

 時計を見た。秒針は十の文字を打とうとしている。窓の外では、静穏な月光に翳りが見え始めていた。乱層雲が漂いつつある。やがて月までも私を見放す夜が来るかもしれない。もしかすると、 それは今夜なのだろうか。

 不意に「無論、人生とは崩壊の過程である」という言葉の意味ががわかった気がしてきた。フィッツジェラルドを私に教えてくれたのはXであった。そして、Xはこの言葉を愛していた。「まるでハンマーの音が鳴り響くよう」だと言っていた。事実、その通りであった。人はハンマーで打ち砕かれたように、崩壊していくしかないのである。それは、ある種の真実に気づいた時、崩壊せざるを得ないからだ。

 ぽつり、ぽつり。次第に雨が降り始めた。月明かりは薄い雨雲の奥で揺れている。まるで幻影に魅せられたように、怪しく不気味な美しさが夜を支配し出している。今なら幽霊が出てきてもおかしくないだろう。もしかすると、それは既に後ろにいるのかもしれない。そう考えると、突然幽霊が私の背後をじっと見つめているような気がしてきた。あんなにも居心地のいい暗闇が、今や怖くて仕方ない。振り返ればそこに何もないのはわかっている。しかし、ただ私が振り返った時にだけ姿を消しているだけなのではないか。

 日付が変わるまでは時間がある。今日はここで一度筆を置いて、眠りにつくべきだろうか。否、そんな事は更々するつもりもないのだから、考えるだけ無駄だと言うべきだ。私はこの小説を書き終えるまで、眠ることが出来ないだろう。もうわかっている。ここにこそ、今日までの自分の生活の帰結があるのだと。ならば一切に終止符を打つために、夜明けまでにこの小説を完成させなければならない。


 我々は渡り歩くように記憶と記憶の間を移動するものだ。今ある記憶は絶えず別の記憶によって裏切られる。時間の経過は出来事や事件の発生を可能にする。それが新しい真実を出現させるならば、その時かつて真実であったものは偽に変わるのだ。記憶の結晶は時間の力によって生まれる。しかし記憶の結晶を割るのも純粋で空虚な時間の力なのである。

 スピーカーからはマーラーの第六交響曲のアンダンテが流れ始めていた。能動的な弦楽の音色が、まるで麻酔に打たれるような痺れを、酩酊を与えてくれる。音楽はいい。美しい音楽は全てを忘れさせる。いいことも悪いことも、全部なかったことにしてくれる。何故人はもっと音楽を大事にしないのだろう。音楽よりも直接身体に訴えかける芸術は他にないというのに。

 ベルクはヴァイオリン協奏曲を書いた際に《ある天使の思い出に》という献辞を付した。それは彼と関係のあったアルマ・マーラーの娘マノンが夭折したからであった。彼はマノンを大変可愛がっていたという。そして、この娘の死が余程ショックだったのだろう。ヴァイオリン協奏曲の全体には、悲しくも痛々しい美しさが漂っている。ベルクの天才は、この曲を「一人の娘との思い出」以上のものにしたということ、一人の娘の死を「ある娘の死」に、「ある天使の思い出」に昇華したということにある。彼は個人的な記憶、時間の結晶を乗り越えて、非人称な世界、脱人格化された世界へと向かったのである。

 経験によってのみ書くのは馬鹿らしいが、しかし経験を踏まえなれば、人は何も書く気になれないのかもしれない。

 今日まで一度も小説を書いたことがなかったのは、あるいは一度も小説を完成させられなかったのは、どうしても自分の書く言葉が好きになれなかったからだ。批評を発表したことはあった。しかし、大したものではなかった。私は文学を愛している。言葉を愛している。しかし同時に、言葉が怖くて仕方ないのである。言葉には、あまりにも多くの策略と意図、追憶、個人的な計算が付きまとっている。言葉にはあまりにも私の面影が残りすぎている。ベルクのように「ひとりの娘の死」から「ある娘の死」へと、個人的なものから非人称なものに移行するのが出来ない。言葉は私を窒息させるのだ。

 再びマーラーのアンダンテに耳を傾ける。洪水のように溢れ、絡み合う諸楽器の合奏が、私の心痛を浄化してくれる。マーラーの経験した苦しみと、私の経験した苦しみは同じものではない。決して。しかしマーラーの天才は、自らの苦痛を世界の苦痛にまで変身させたのだ。彼の音楽に耳を傾ける者は、あたかも自分の苦しみがそこで歌われているかのような印象を受ける。それは一つの救いであり、償いでもある。音楽の嘆きは世界の嘆きとなり、嘆く声すら漏らせない者、叫ぶことの出来ない者の代わりに嘆き、叫ぶものとなる。

 個人の記憶を乗り越え、世界の記憶に至る小説を書くことは、果たして可能なのか。私以外のことについて語るために、何故最初に私自身について言及しなければならないのか。小説とは、可能世界の探求、別の世界線の究明、先験的領野の探索ではないのか。一つの出来事の内には、決して今は理解し得ないものが含まれている。砂糖水を飲みたければ、砂糖が水に溶けるのを待たなければならない。時が経たなければ理解できないものが、この世には一定数ある。しかしそれを理解するためには、なにか新しい、別の出来事の現前が必要とされる。時間の経過がこちらに与えるのは出来事である。真実の出現はこの出来事の現前によらなければ可能にならないのだ。出来事こそが、こちらに新しい示唆を与えるのだから。

 ならば「小説を書く」という行為は、この新しい出来事の勃発のために行われなければならない。書くという行為は、今現在目の前にあるものに逆らい、別の世界線とその可能性を示すためにあるのではないか。もし出来事がかつての真実を覆すならば、今目の前にある悪も転覆可能なのではないか。


 Xには書き途中の小説があった。私は彼女の文学のファンであった。かつて、私は上のような文学論を彼女に語ったことがあった。すると、彼女は薄ら笑いを顔に浮かべ、言った。

「考えすぎだよ。そんなんじゃいつまで経っても小説なんて書けないよ」

「そうかな、じゃあ君はなんで書いたんだ?」

「なんで?そんなの決まってるじゃない」

 彼女は自嘲するように口元を歪めながら、言った。

「退屈だからよ。暇だから書いたの。それくらいしかすることがないから書いたんだよ」

「そんな、それは誇張だよ」

「いいえ、ちっとも誇張じゃない。誰も高尚なものを求めて本なんか開かないわ。皆人生に飽き飽きしてるから本を読むの。書いてる側も同じ。それ以外に楽しいことがないからしてるだけ。で、私も同じなんだよ」

それから一度を口をつぐんだ後に、こう続けた。

「ねえ、人生って、いきるにはあまりにも長いと思わない?」


 もしかすると、個人の経験と切り離せないからこそ、小説は他の芸術よりも一層強い影響を誰かに与えることが出来るのかもしれない。


 物質、それは記憶が最も弛緩する地点である。相手の顔、相手の身振り、相手の口調に、なにか紐解くべきものがあるような気がしてくる。出会った当初は、それが何かわからない。こちらはそれを解読していくしかない。だから新しい物質との出会いは、新しい記憶の入口へと私を誘い出す。それは今日までの経験だけでは納得しえない、新しい何かが介入してくることを意味する。

 Xとの出会いは、私のすべてを変えた。Xはそれまで私の経験に先立ち、それまでの私の経験を乗り越える存在だった。彼女は私の人生における嵐であった。私はその嵐に巻き込まれた。やがて嵐は去っていった。しかしその傷は今も癒えることがない。私達がすごした日々は、決して美しいものではなかった。しかしそれでも、私はその日々が残した結晶から抜け出すことが出来ないのである。

 これから私が書くのは、決して自伝でもなければ、恋愛小説でもない。それは眠らずに見る夢の話である。眠りは夜を裏切る。今や私は、不眠の傍らで夢を見ることとなる。

 時計を見ると、秒針は零時を示そうとしていた。雨は既に大降りになり、月光はもう見る影もなかった。


《表現と結晶》 以下に続く小説を、私はそう名付ける。