《表現と結晶》二・2

 あの電話以来、Xはもっと沢山のこと話してくれるようになった。私はずっと何故彼女が法学部に行ったのか知りたいと思っていた。しかし、その理由も聞くことができた。彼女は両親が二人とも弁護士であったのだ。そして家の方針として、法学部以外を選択することが出来なかったという。両親は共に厳しい性格をしていたが、特に母親の方をXは嫌っていた。

「私が何処かに出かける度に、何処へ行くのか、誰と会うのかを伝えなきゃならないんだよ」と、そう語る彼女の顔は何処か疲れていた。

 Xは変なところで頑固だった。「そんなのは適当に嘘でもつけばいい」と言うと、Xは冗談半分で笑いながら言った。

「私は君じゃないから、親や他人から逃げたりしないわ」

 しかし、彼女が高校生だった頃、実際に志望していたのは文学部ではなかった。彼女は大学で音楽を学びたかったのである。

 私は驚いて聞いた。

「じゃあ、ピアノが弾けたりするの?」

「まあ、ちょっとね。でも私の場合、ピアノよりも歌を学んでいたかな」


 私はクラシックに明るくなかった。ただ十代の頃に傾倒したトーマス・マンヴィスコンティの影響で、マーラーの音楽を愛していた。しかし、彼女はマーラーを好まなかった。理由は「あまりにも壮大で、ついていけない」との事だった。「マーラーは世界なんだよ、彼の音楽には全世界の苦悩が詰まってるんだ」と熱弁すると、「いやあ、そんなこともないでしょ」と鼻で笑われた。代わりに彼女が好きだと言ったのは、シューマンであった。

シューマンは好き?」

「いやあ、あんまり聞かないな」

「どうして?」

「なんか、ちょっと重苦しくて」

マーラーが好きなのに?」と、彼女はまた笑いながら言った。

「うるさいな」と言いつつも、私は悪い気がしなかった。そして続けた。

マーラーも暗いし、沢山の音が鳴ってるけど、何処か軽やかな所があるというか、別の世界への希求があるというか、とにかく、より善い世界への祈りが込められているんだよ。そう、マーラーの音楽は生命への、大地への賛歌なんだ!でも……」

「でも?」

シューマンはずっと暗いし、うるさいし、正直あまりよさがわからない」

「当たり前じゃない」と、彼女は言って、また笑った。しかし今度の微笑には、何処か皮肉めいたものが漂っていた。私は思わずギクリとした。そして彼女は、上の言葉に続けて、気取ったように言った。

「人生はすべてのものよりも重く苦しいんだもの」

 それは私達が知り合うきっかけを作った詩人の言葉の引用であった。


 彼女は自分の学校にいる他の生徒のことを、特に自分と同じ学部の者のことを見下していた。何の趣味もなければ、凡庸なことに悩んでいる馬鹿どもだと思っていた。彼女に言わせれば、飲み会で声のでかい連中や、騒ぐことしか能がない大学生は低俗であった。しかし「友達のいない、寂しい奴」だと思われるのはプライドが許さなかった。だから表面上は愛想良く過ごしていた。実際、彼女は友達が多かった。私より遥かに多かった。しかし友人の話になると、いつも冷たい、見下したような言い方で話していた。それは、普段の私が決して見ることの無い顔だった。やがて自分もこんな風に見られてるのではないかと思うと、多少なりとも不安でならなかった。

 ただ、そんな彼女にも彼ら「ふつう」の大学生に似通った部分が多くあった。流行りのポピュラーミュージックだって聴くし、ネットに掲載された漫画を読むこともあった。液晶画面に映るアニメにじっと見入ってることもある。そんな時、Xは実にあどけない表情をしていた。私からすれば、自分も彼女も、ただ「ふつう」に馴染めていないだけで何処となく凡庸であった。


 彼女との関係性の変化に伴うかのように、私自身の環境も少しづつ変わっていった。Xの影響で始めたブログを、かつての大学の同期が見つけてくれたのである。そして私の記事に対して好意的なコメントを寄せてくれた。

 それ以来、私は同期と連絡を取り合うようになった。やがて、私は彼と二人で会った。色々な話をした。昔は何も話すことなどないと思っていたのに、いざ会ってみると、色々な意見が出て楽しかった。夜になると、私は早速Xにその事を話した。すると彼女は、ただ「ふーん」とだけ返して、それ以上のことは言わなかった。

 あまり話題が盛り上がらなかったので、私は他のことを話すことにした。


 既にXと知り合ってから半年が経過していた。会う時だろうと、電話越しだろうと、彼女の話す内容は両親にまつわるものが多くなっていった。そして、次に来るのは学校の愚痴であった。お母さんが辛く当たる。お父さんの束縛が苦しい。大学がつまらない。友達は馬鹿ばっか。下らないことしか話さない。家に帰ればお母さんが怒鳴りつけてくる。ヒステリーを起こす。お父さんはそれに知らんぷりする。苦しい。毎日が苦しい。退屈で仕方ない。ああ、つまらない、つまらない、つまらない……。

 私はどんな言葉をかけていいのか知らなかった。彼女が嘆くのを聞く時は、いつもおどおどして、何を言えばいいかわからなかった。最近、自分が楽しかったことを話せば、彼女も明るい気持ちになってくれるかもしれない。そう思って話し出すと、決まってむしろ苛立った態度を示されるのであった。

 はあ。私が気まずくなって地面を見つめてると、彼女のため息の音が聞こえた。そして言った。

「私、なんで君と仲良くしてるんだろ」


 早く彼女に元気になって欲しかった。彼女の苦しそうな顔を見ると、心臓がえぐられるように痛かった。しかし、どうすれば彼女が慰められるのかがわからなかった。頭を抱えて悩む日が増えた。しかし、それがすべてではなかったのも事実である。笑って過ごす時も多かった。そして、仲良くしていられる時は、今日までのギスギスが皆なかったことになったような気がした。

 仲良くなった同期については、次第に話に出さなくなった。話すと彼女が不機嫌になるから。ただ、親睦は会う度に深まっていったと思う。隠し事をしているようで嫌だったが、彼女に嫌な顔をして欲しくもなかった。せっかく二人でいるのに、どうして諍い合わなければならないのだろう。そんな事は間違っている。

 しかしある日、再び事件が起きた。今から思えば、私達の関係は地震に似ていた。震動が起きる度に何らかの変化があったから。

 ある日、私は同期と酒を呑みに行くこととなった。無論、Xには内緒であった。楽しい夜だった。共に文学について語り明かした。同性の友人でここまで仲のいい相手ができたのは初めてだった。私は相当酔っていた。同期も相当酔っていた。だから互いに恥ずかしいことを平気で言った。やがて同期は「僕と一緒に雑誌をやろう」と言った。

「君と僕ならきっと面白いものができるよ、いや絶対そうだ、そうに違いない」

「いわゆる同人誌と言うやつかい」と、私は言った。

「正直今日まで手に取ったこともないが、面白そうだな」

「だろう?」と、同期が嬉しそうに返した。

「批評、詩、小説……僕の知り合いで、とにかく優れた人をみんな集めてやるんだ。面白いものになるよ。僕は自作の小説をそこに載せようと思う」

 そこまで語ると、手元のグラスジョッキをじっと眺めながら熱弁していた同期は、身体をこちらに向けて、言った。

「君はどうする?やっぱり批評か?」

「俺は、そうだな……」

 そう言うと、私はしばし沈黙した。正直に言うと、私も小説を書きたかった。しかし、今日まで小説を書いたことがなかったから、自信がなかった。ブログに載せていたのは、いつも批評めいたものであったが、それもあまり上出来だとはいえなかった。詩なんて以ての外である。恥ずかしくて書けるわけがない。「あー……」 という声で沈黙をごまかしながら、何とか次に言うべき言葉を探した。そして言った。

「まあ、そうだな。批評でもやろう。誰について書こうかな」

 そこからまた話は盛り上がった。しかし、お互いに明日用事があったので、あまり遅くまで飲めないということに気がついた。同期はバイトがあり、私はXと会う予定があった。会計は二十二時には済ませた。私は彼を駅まで見送ることにした。帰り道でも、居酒屋で話した内容の続きを語り合った。そして互いに晴れ晴れとした気持ちでわかれた。

 ひとりで帰る道中も楽しかった。私は色んな将来を空想した。同期と立ち上げた同人誌が高い評価を受ける未来を考えた。彼は優秀な学生で、人望も厚かったから、きっと素晴らしい人材が集まるに違いない。自分はまだ何を書くか決めていないが、もしかするとその文才が認められ、出版社から声をかけられるかもしれない。そうすれば、Xと私の未来もより現実的なものになるだろう。確かに彼女の両親は厳しい。自分のような人間との結婚など、きっと許してもらえるはずがない。しかし、もし作家として成功すれば、彼女との関係だって公認されるはずだ。いや待てよ。そもそも僕達は仲がいいが、思えばまだ付き合ってもいないじゃないか……。まずはそこからだろうに……。

 ふと、Xとよく寄る公園が目に入った。そうか、もうここまで歩いてきたのか。彼女のことをもっと考えたかったので、公園の中に入ることにした。

 すると、驚いた。そこには、いるはずのないXの姿があった。彼女はブランコに腰を下ろして、顔はじっと俯いたまま、膝の上に置かれたスマートフォンの画面を眺めていた。

 私は思わず目を疑った。大袈裟に目を擦って、それが酒のために見えた幻影でないことを確認した。そして、大きな声で彼女を呼んだ。

 しかし、彼女は顔を挙げなかった。どうしたのだろう。私は続けて話しかけた。こんな所で何をしているんだ。奇遇だね。丁度いま、君のことを考えていたんだ。今夜はすごく楽しい夜だよ。いいニュースがあるんだ。前話した、大学の同期のこと覚えてる?彼と同人誌をやるかもしれないんだ。で、それが凄く面白いものになりそうなんだよ……。よかったら君も寄稿してみないか?

 反応がない。代わりに五、六秒ほど沈黙した跡、突然Xは声を出した。それは決して大きな声ではなかったが、よく響く声だった。低く、ずっしりとした、公園全体に聞こえてもおかしくないような、ある種の緊張感が支配していた。

 「今日は何をしてたの?」

「何って?ああ、その同期と呑んでいたんだ。実を言うと、君には話してなかったが、あれからまたよく会うようになって、今晩もそいつ呑んでたんだよ」

「ふーん」

 再び辺りを静寂が支配した。まるでこの世界の時が静止したかのように思われた。あるいは、全ての生命が活動をやめたとさえ思われた。彼女の用いた語彙には、何処にも非難めいた所がなかった。にも関わらず、彼女の言葉を聞く度に、心臓を後ろから刺されたかのようにギクリとした。私は一瞬、呼吸をやめた。何故かはわからないが、言い訳をしなければならないと思った。しかし、何を弁解すればいいのかわからなかった。

 私が何かを言う代わりに、Xが言葉を続けた。

「どうして電話に出なかったの?何度も連絡したのに」

 私はハッとした。昨晩、寝る前にスマートフォンを充電するのを忘れていたのである。そういえば、丁度同期と呑み始めて間もない頃に電源が落ちてしまった。Xから一件連絡が来ていたのは知っていたが、同期との話があまりにも楽しくて、返すのを後回しにしていたのもあった。
 
「いや、実を言うと、昨晩充電するのを忘れてて、それで……」

「うるさい!」

 彼女の叫ぶ声が一帯に響いた。先程までの静寂が打ち壊されると同時に、それが築き上げてきた緊張をさらに高めるものでもあった。息が荒れ始めた。ずっと下を向いていた彼女の顔が、私の方へと向いた。その顔を見ると、更に息が苦しくなった。彼女は泣いていたのだ。怒りと憎しみに満ちた涙であることは、ひと目でわかった。彼女は今日までに見た事ないような形相で私を睨んでいた。他の誰にも見ることが出来ない、不気味で、威嚇するような、あまりにも深い憎悪に燃えた眼差しであった。あの目で見つめられると、もしこちらが何をしていなくても、死刑になって仕方ないような罪を犯した気がしてくるのである。

「楽しそうでなによりだねえ。ああ、よかったよかった!これで私は用済みってわけね」

「何を言ってるんだ?X」

 私は声を荒らげて言った。しかし、遮るように彼女は話を続けた。

「だってそうじゃない?辞めた大学で私以外にお友達ができて、そっちと仲良くして、私は放ったらかしなんだから。おまけに楽しそうな企画もやろうとしてるし。ああよかったね、いいこと尽くしじゃない。きっと君はこれから沢山友達が出来て、周りには女の子も増えて、私がこんなに苦しい思いをしてるのも忘れていくんだ!」

「そんな……そんなわけないだろう!」

 知らぬ間に、私も涙ぐんでいた。言葉を続けたかったが、呼吸がしづらくて、上手く話せないでいた。

「嘘よ!そうに決まってる。どうせ私なんか繋ぎでしかなかったんだ。君はこれからどんどん人生が楽しくなって、私のことなんか忘れていく。丁度今日みたいに!私がこんなに毎日苦しんでるのに、毎日ひとりぼっちなのに、毎日いじめられてるのに、それを知らんぷりして生きていくようになるんだ!」

 彼女は顔を覆った。そして嗚咽を上げながら、言った。

「私は許せないの、君が楽しそうにしてるのが。私がいないところで、君が能天気にしていることが許せないの。こんなに苦しんでるのに、君はちっとも苦しまずに、楽天してるのが許せないの。私を置いて、私を抜きにして幸せになるのが許せないの。ああそうよ。どうせ私は邪魔者よ。皆にとって、私は邪魔者なの。今に君だって私の存在に耐えられなくなるに違いないんだ」

 何も言えずに、ただ立ち尽くしていた。涙は止まらずに溢れて、頬はびしょびしょに濡れていた。しかし、それを拭うことなど数千年も前に忘れてしまったかのようだった。それほど時間が長く感じられた。たった十分そこらの会話のはずなのに。

 私はあんぐり口を開けたまま、首を何度も横に振った。そして彼女をじっと見つめながら、言った。まるで死に物狂いで何かにしがみつくように、静かな声でつぶいた。

「違う、X……君は誤解している……わからないのか、僕には君しかいないのに……毎日、君のこと以外考えていないのに……君は僕のたったひとりの友達なのに……君が望むなら、アイツと縁を切ったっていいのに……君がいないと、僕は幸せになれないんのに……それがわからないのか、X……!」 

 彼女が顔を上げた。既に憎悪の炎は消えたいた。ただ涙に歪んで、しわくちゃになった顔だけがあった。それは臆病な子供が迷子になって怯えてる姿に似ていた。しかし、彼女の泣き顔は、もしかすると私の写し鏡であるもしれなかった。口の中がしょっぱくて、自分もしわくちゃになって泣いてるのがわかった。

「君は僕のすべてなんだ……君がいないと、僕は空っぽなんだ……君に出会って、やっと生きるのが楽しくなり始めたんだ……なのに、何故それがわからないんだ……?君がいないと生きていけないのに、何故それに気づいてくれないんだ……」

 私達は互いに大泣きした。彼女のブランコと立ち尽くす私の地面の距離は、たった十数メートルしかなかった。しかし、今やそこだけが世界の全てであった。


 その晩、私達は初めて結ばれた。

 自分で書いておいてなんだが、「結ばれた」という表現は結構気持ち悪いと思う。しかし生憎、それ以外に上手い言い方が思いつかない。私はそれまで、異性の家族もいなかったし、女性の身体を知らなかった。だからだろうか、生まれて初めて触れる成人女性の裸体は、なんというか、こう、とてもショッキングだった。本当に、あまりにも柔らかくてビックリした。あれは桃の果実だった。瑞々しく、弾力のある肌は、これまでに見たことないほど白く、美しかった。はっきり言って、その夜は衝撃の連続だった。私は生まれて初めて果物を齧った少年、そして新鮮な果物の甘さに感動する少年であった。

 朝起きたときの多幸感を、私は永遠に忘れないだろう。隣には愛する女性が眠っていた。そして、昨晩の感覚はまだ私の肌に残っていた。カーテンの隙間を抜け出して、柔らかな日差しが起き上がった半身を照らした。時計を手に取ると、もう十時を過ぎていた。私はカーテンの向こうに広がる蒼穹に胸を馳せた。ついに想い焦がれていた「一線」を超えたということもあって、何故となく誇り高い戦士の気持ちになっていた。何も成し遂げてないのに、成し遂げた気持ちになった。

 寝ている間に充電しておいたスマートフォンを開くと、彼女からの不在着信が大量に入っていた。一瞬、私の勝ち誇った気持ちは戦慄し、恐怖と不安に変わった。しかしまた次の瞬間には、そんな不器用な彼女を愛らしく思った。ふと、寝ている彼女の頭を撫でたくなった。しかし、そんなことをするのは少々気取りすぎかもしれなかった。そう思って、結局黙って彼女の寝顔を見つめることにした。

 しかし、スヤスヤとした顔を眺めていると、知らず知らずに口元が緩んでしまった。


 死の数ヶ月前から、Xは殆ど家を出なくなっていた。私が仕事から帰ると、彼女はカーテンだけでなく、雨戸さえも閉めっぱなしにしていた。喚起をしない部屋に特有の、こもった、肌にまとわりつくような生暖かさが漂っていた。薄暗い中、ただPCの灯りだけが彼女を照らしていた。

 その頃、彼女は酷く痩せ細っていた。頬はこけ、見るからに不健康そうな見た目をしていた。元々痩せている方ではあれど、その痩せ方は異常だった。肌は象牙のように青白く、生気を失っていた。その姿は、この世のあらゆるものに耐えられなくなっているようにも見えた。

 私が外で他人と予定があったのを知れば、彼女は頭を掻きむしった。彼女は世を憎んでいた。ヘラヘラした顔で生きている人間のすべてが許せなかった。しかし関わる相手は私しかいなかった。だから、彼女の憎悪はすべて私に向けられた。時にはそのために泣き出すこともあった。その姿は、他人を傷つけてしか生きられない自分を憎んでいるかのように見えた。

「私、ダメなの」と、ある日彼女は泣きながら言った。

「私、他人が許せないの。平気で楽しそうに生きていて、自分がどれだけ他人を傷つけたり、苦しめたりしかは知らんぷりした人間が許せないの。世間の連中なんて皆そうだ。どいつもこいつも綺麗事ばっか並べやがって、罪悪感なんて少しも感じずに、いかにも自分は善良ですと言いたげに生きている。ああ、気持ち悪い。気持ち悪くて仕方ない。皆死んでしまえばいい。でも、苦しい。生きるのが苦しくて仕方ないの。ねえ、なんでなの?なんで私だけこんなに苦しまなきゃならないの?」

 また頭を掻きむしった。そして首をこちらに向けて、続けた。

「でも君は、私がこんなに苦しんでるのに、他の人と楽しく遊んで、平気な顔して毎日を生きて、自分だけ楽しく生きようとしてる。許せないわ、本当に許せない。私を不幸の中に置き去りにして、自分だけ幸せになろうとしてる。ねえ、わかる?なんで私がこんなに怒ってるのか、本当にわかってる?ねえ、どうして何もわからないの?」

 両手で顔を覆う彼女を前にして、私は何を言えばいいのか分からなかった。自ずと「ごめん」という言葉が口から漏れた。「違う」と言っても、信じてもらえる気がしなかったから。そんな時はふと、ふたりが初めて会った時のことを思い出したりした。思えばあの頃はよかった。一緒に本屋に寄った時、彼女から二人の作家を薦められた。シェイクスピアドストエフスキーである。私達が共通で好きなあの詩人、そしてフィッツジェラルドに並んで、この二人は私の思い出の作家となった。私はこの思い出達を愛していた。どれも貴重な、私にとって初めての体験だったから。


『オセロー』の話をした後に、彼女はドストエフスキーの話をした。

「私は『白痴』が一番好きなんです」

 彼女は『オセロー』を棚に戻し、本棚に『白痴』がないかを探し始めた。

「『白痴』にはナスターシャっていうヒロインが出てきて……ああ、あったあった、これだ!ドストエフスキーの小説は全部長いけど、本当に流れるように読んじゃいますね。文章のリズムが掴めれば、ぐっといけます。あと多分、年齢もあるのかも。これは私の個人的な考えなんですけど、ドストエフスキーは若い内に読まないとハマらない作家だと思うんです。『罪と罰』のラスコーリニコフや、『地下室の手記』の語り手なんか、私達くらいの年齢の人間がいちばん共感しやすいんじゃないかな。ドストエフスキーが私のために書いている、このキャラクターは私と同じだ。若い人間が読むとそう考えざるを得ないようなキャラクターが必ず出てきます。それが、彼の小説のいいところですね。だから読者は皆作品に自己投影したり、感情移入したりしちゃうんです。ドストエフスキーのキャラと自分の区別がつかなくなっちゃうんです」

 その頃、私はまだ『罪と罰』と『地下室の手記』くらいしか読んだことがなかった。だから、素直に「まだその二冊しか読んだことがない」と言うと、「じゃあ是非『白痴』を読んでください」という返答が来た。

「この本はナスターシャのためにあるんです。ナスターシャは過去の不幸のために、未来の幸福が信じられないんです。彼女が求めているのは向上ではなく、破滅だから。飛び切り上等な恋人よりも、誠実で純真な王子様よりも、屋根裏で餓死するために、貧乏な学生を選ぶような人間なんですよ。実際にそう書かれてます。本当に、その通りなんです。彼女の望みは、自分を幸せにすることでも、他人と幸せになることでもなく、自分を傷つけ、他人を傷つけ、苦しめることなんです。そうして今日までの自分の苦しみのツケを支払うことなんです……」

 その日、私は『オセロー』と『白痴』の二冊を買った。そして、そのどちらも今なお大事に本棚の中に収められている。


 あれから二年後、彼女は死んだ。事故死だった。枝のようになった二本の脚でよたよた歩いているところを、トラックに引かれたのである。死体は醜く、無惨なものだった。出会った頃の美しさは見る影もなく、ただぐちゃぐちゃになった肉塊が転がっているだけであった。

 病院に着いたのは深夜であった。私は生まれて初めて、人のために泣いた。それは悲しみの涙というよりも、絶望、あるいは虚しさの涙であった。


 ざあ……ざあ……。雨の音が聞こえる。この土砂降りはいつ止むのだろうか。思わず窓の外に目を向けた。夜が始まる頃には、想像もつかないような激しい雨であった。これでは執筆から意識が逸れてしまうのも仕方あるまい。思えば、彼女が死んだ日にも雨が降っていた。私が病院についた時、死体はまだぐっしょり濡れていた。

 時計を見る。もう夜の三時を迎えようとしていた。あと二時間で夜が明ける。それまでに、雨は上がってくれるだろうか。