《表現と結晶》二・4

 朝が近づいている。もう四時だ。雨は先よりかは小降りになったかも知れない。ふとペンを置き、両手で顔を覆う。不思議だ。この場面を書くために筆を取ったのに、いざその箇所に至ると、書く気が起きない。自分でも、それが何故なのかわからないのである。

 スピーカーの電池を入れ替えるために、引き出しを開く。すると、沢山のXの写真が目に入る。ああ、どれも口元を緩めずにはいられないものだ。しかし、私にはわかっている。自分は彼女を愛しているのではなく、彼女と過ごした思い出を愛しているのだと。

 それは生前も同じだった。どれだけ理不尽な目にあおうとも、どれだけ辛く当られようとも、すべてを許すことが出来た。それは目の前にいる彼女を愛しているからではなく、かつて彼女と過ごした思い出を愛していたからだ。事実、それは感動の連続であった。私の「初めて」が沢山詰まっていた。そして、それらを前にすると、今現在の苦しみも霞んでしまうのであった。もしかすると、彼女は前と同じように笑ってくれるかもしれない。私達は、再び以前と同じように楽しく過ごせるのかもしれない。そう考えると、彼女を捨てる気になど到底なれなかった。

 今ならわかる。自分は幻影を追いかけていたのだと。ずっと「あの時」の続きを求めていたのだと。しかし、私達の中断された青春は、もう二度と再開されることがなかった。真実は、日に日に、否定できないくらい大きくなった。何かある度に、それは私に現前した。

 しかし、今考えると一番不思議だったことは、子供の頃はあんなにも自由を渇望したのに、今や服従を求めて生きているということであった。あたかも服従によってしか自分の幸福が手に入らないかのように。

 電池を見つけた。これでまた音楽を流せる。しかし、今はまだその時ではない。きっと今は雨音に耳を傾け、実際に何が起きたのかを知るべき時だ。


 Xと出会ってから二年が経過しようとしていた。同棲生活も既に一年以上続いていた。ただ、日に日に、私達の愛は冷めていった。あるいは、私が以前よりもクリアな眼差しで現実を眺めることができるようになっただけかもしれない。

 一方で、Xは以前に増して呆れた態度を取ることが増えた。そしてその度に、「何でそんなこともわからないんだ」と口にするのであった。

 それでも、私達は離れられなかった。私と彼女の間には不思議な波長があった。知らぬ間に、私と彼女にしか分からないルールが出来ていた。そして、そのルールが私達の世界の全てであった。ルールを破ると、たとえ客観的に見れば悪くないにしても、悪者扱いされることとなった。時々、彼女はまた出ていこうとするポーズを取った。そして、それが見せかけであることは目に見えてわかっていた。しかし出ていこうとする度に、私が取るべきポーズは「引き止めること」だった。

 それが私達のルールだった。初めは彼女が本当に去るのではないかと不安がっていたが、しかし回を重ねる毎に、それも薄れていった。

 もう何もわからなかった。最早何処までが自分であり、何処まで彼女であるのかすら、不明瞭になっていた。しかし、お互いが違う人間であることは、日を追う事に痛切させられた。私は生きることを望んでいた。たとえ今がどれだけ盲目で、どれだけ苦しくとも、いつかはこの泥沼から抜け出せるのだと信じていた。しかし、彼女の望みは死ぬことだけであった。彼女は最初から、私と共に生きることなど望んでいなかったのだ。Xの望みは停滞であり、そのまま泥濘の中で破滅することだった。しかし、私は生きて前に進み、幸せになりたかった。自分の夢を叶えたかった。死ぬにはまだあまりにも若すぎるし、知らないことが沢山あった。確かに、この世は私の期待しているものではなかった。仕事上の付き合いで、それまで顔を突っ込まなかった世界を知ることが増えた。その結果として、自分が羨ましがっていた「ふつう」の人達の幸せが、実は大したことないのだと知った。それでもまだ、幸福への願望を捨て去ることなど出来なかった。しかも、どうしようもない困窮を前にすればするほど、期待や願望は深まるばかりであった。

 そうだ、この世の中は下らないもの、馬鹿げたものばかりじゃない。もっと善いものだって存在する。なのに、彼女は何故それを理解してくれないのか。あるいは理解していたとして、何故それを受け入れてくれないのか。私達はもっと幸福になることが出来た。もっと楽しく暮らすことが出来た。もっと別の生き方が出来た。そのはずなのに、何故それを拒んだのか。私はこんなにも君と生きたいのに、何故君は死ぬことばかりを考えていたのか。それが理解できない。あるいはただ、理解したくないだけなのかもしれない。

 私は何度も彼女にこの想いをぶつけようとした。しかし返ってくるのは、いつも同じ態度だけであった。冷たく、嘲笑うかのように受け流すか、あるいはあのギラギラとした、威嚇するような眼差しでじっと見つめるばかりであった。返ってくる言葉があるとすれば、それは「どうしてわからないの?」のただひとことであった。私は彼女と共に生きたかった。彼女と向き合いたかって生きたかった。しかし、その一切は拒まれているかのように見えた。まるで『ラストタンゴ・イン・パリ』の二人であった。名前も、素性も、現在の生活も、そのすべてを口にすることが禁じられていた。求められているのはただ、今日までの苦痛を忘れさせる快楽だけであった。

 次第に、少しずつ、自分が求めているものが存在しないことに気が付き始めた。彼女は私の初恋の相手であった。その人との関係がこのまま終わりを迎えるなんて、あまりにも残酷であった。しかし、再びあの時と同じ輝きを得ようとするほど、それが遠ざかっていくのがわかった。今や私達がやり直せないことは明白であった。否定できない事実であった。しかし、私はそれに向き合いたくなかった。ほんの僅かに残された「もしかしたら」の可能性にしがみつきたかった。そして、それが出会って二年目を迎えた真実であった。


 その間も、私は同期との連絡を取りあっていた。そして今度の春、彼、私、そして彼の誘った友人達による同人誌を発表することが、ついに決定した。既にネット上でもそれなりに話題になっていた。参加者はそれぞれ、特設されたサイトに何らかの文章を発表することが決まっていた。無論、私もそれを行った。そして、そこに載せたのは、私とXが知り合うきっかけとなった詩人による、唯一の長編小説についての批評であった。彼女と知り合ってからの二年間、何度この小説を開いたかわからない。しかし、今になってやっとこの詩人の気持ちがわかるような気がした。そして、思いの丈のすべてを自らの文章に吐き出した。勿論、個人的な感情については一切言及しなかった。ただ、作品への言及を通して、その分析を通して、あたかも主人公と自らが同一であるかのように語った。決して上手い出来とは言えないかもしれなかった。しかし、気を使われたのか、それなりの好評で迎えられた。私は嬉しかった。初めて他人に認められたような気がした。そしてここから、自分の文学者としての人生がスタートするのだと思った。

 しかし、Xがそれを見逃すわけがなかった。ある晩、彼女はそれを詰問した。ペンネームで発表したが、それが私のものであることに勘づいたのだ。文体が私のものであったし、取り上げた本も私達にとって思い出のものだったから。しかし、それでよかった。この批評は、私なりに彼女に向けたメッセージでもあったから。私達はまだやり直せる。この小説の語り手のように、過去の苦しみを受けいれ、前を向くことが出来るはずだ。彼女にそう伝えたかった。

 しかし、彼女はそれを嘲笑った。

「君はまるでこの小説について理解してないね。これは主人公が自分が敗残者であることを認める過程なの。貴族の末裔として生まれた若いスウェーデン人がひとり、パリで孤独な生活を送りながら、少しずつ、けれど明白に、人生に打ち負かされた人達に共感を抱いていく。そのことが隠せなくなっていく。自らの出生とは正反対の人間への共鳴が、切実なものになっていく。小説の後半の明るさは、決して彼が過去のトラウマを乗り越えたからじゃない。むしろ彼が開き直ったから得られたものなの。愛されることを、救われることを諦めて、敗残者として、没落していくことを受け入れたから得られたものなの。だからあんなにも朗らかな雰囲気が出ているの」

 今ならわかる。彼女は正しかった。この小説について、『マルテの手記』について、私は誤解していた。しかし、あの頃はまだそれが理解できなかった。反論めいたことをいくつか述べたが、あまりよく覚えていない。恐らく、大したことは言わなかったと思う。何より、私が話したいのは『マルテの手記』のことではなかった。今後の私達のことであった。

「何故僕に向き合ってくれないんだ」

 私がそう言うと、彼女は返した。

「君が私に向き合いたくないからだよ」

「どういうこと?」

「その言葉どおりの意味だよ」

 そう言うと彼女は、またあの皮肉っぽい笑みを浮かべた。

「ねえ、どうしていつもわからないの?私はね、最初から、君と幸福になることなんて求めてないの。出会った頃はよかった。君はもっと不幸そうだったから。でも今は違う。前なんか向いちゃって、馬鹿みたい」

「じゃあ君は、僕がずっと不幸でいて、自分もそうあるべきだと思ってるの?」

「そうよ、悪い?」

 彼女の憎悪に燃える眼差しが私を突き刺す。

「私達みたいな人間はね、ずっと苦しまなきゃいけないの。苦しんで死ななきゃいけないの。世間の馬鹿共とは違って、苦しみに向き合って生きなきゃいけないの。苦しみだけが真実なの。過去のトラウマとか、嫌な思い出とか、そういったものを、死ぬまで引きずって生きなきゃいけないの。そうしてずっと自分達の影に怯えて暮らすべきなの。天井の隅に巣を作る蜘蛛に震えて、苦しんで死ぬべきなの。それが私達みたいな人間の宿命なのよ」

「そんな、そんなはずない!一緒にしないでくれ!」

「一緒よ。言ったよね、君なしじゃ生きていけないとか、僕には君しかいないとか。まさかあの言葉は嘘じゃないよね」

「嘘なわけ無い、ただ……」

 私はそれから先の言葉が言えなかった。ただ嗚咽だけが漏れた。口には涙の味が広がるのを感じた。

「X、僕は君と幸せになりたい……君と生きたいんだ……君とだったら、全てがやり直せる気がするんだ……」

「全てがやり直せる?そんなの無理に決まってる。私達は苦しまなければならないの。これから先もずっとそう。きっと今日までの生活と同じ苦しみが繰り返されるの。いや、繰り返される度に、苦しみはもっと酷くなっていくの。そうしてお互いにお互いを傷つけあって、二人仲良く死んで行くの」

「そんな……いやだ、いやだいやだいやだ!それなら、それなら僕は……」

 私は涙を拭きながら、キッと彼女を睨んだ。

「……それなら僕は、君と別れる」

「……は?」

 一瞬、場が沈黙した。彼女が私から離れる素振りを見せることはあった。しかし、私から別れを告げたことは今日まで一度もなかった。

「馬鹿なことを、どうせ脅しでしょ」

「いや、本気だよ。僕達、もう終わりにしよう」

 沈黙、再び。静けさの中で、次第に荒れる彼女の息遣いだけが明瞭に響いた。

 間もなくそれは破れた。しかしその破裂音は、あまりにも強烈だった。耳をつんざくような、彼女の叫び声が聞こえた。その顔色は、これまでに見た事のないような憤怒に染っていた。

「嘘よ、嘘嘘嘘嘘!君が私から離れられるわけがない!私がいなきゃ、君は何もできないじゃない!」

 私は彼女をじっと見つめた。不思議と、心の中は平静で満たされていた。

「ああ、その通りだ。僕は君がいなきゃ何もなかった。空っぽな人間だった。でも、それももう辞めようと思う」

 流れる涙を拭いて、彼女の威嚇するような眼差しを見据えた。

「なあX、僕達の関係はずっと前からおかしかったんだ。不健全だったんだよ。やっとその事に気づけた。もうやめよう。一緒に前を向いて歩こうよ」

「へえ!そんなこと言っちゃうんだ!私がこんなんなのに!」

 彼女の顔は笑っていた。ただ、それはあまりにも不気味な歪み方をした笑いだった。

「君が私を捨てたら、私はどうなると思う?大学も休学してるし、友達だって一人もいないし!離婚で揉めてる親のところに突っ返されて、お父さんとお母さんの揉め事に巻き込まれて、全部お前のせいだって言われて、毎日責められて、また来る日も来る日も辛い思いをして!それが全部、君のせいで起ころうとしているんだよ?わかってる?」

「ああ、わかってるよ。無責任なことを言ってるのも分かってる。でも……もう耐えられないんだ。僕は自由になりたいんだ。幸福を求めて生きたいんだ。君となら幸せになれると思っていた……けど違ったんだ」

「ああそうやって!いつも!いつも!自分のことばかり!そう!そっか!そうなんだ!へえ!本当に私を捨てるんだ!へええ!別れるんだ!そのつもりなんだ!そっかそっか!へええええ!」

 私は何も言わなかった。ただ黙って下を向いた。

 はあ、はあ。叫び尽くした彼女の、苦しそうな息遣いが聞こえた。彼女はしばらくじっとこちらを見ていた。しかし、やがて私と同じように下を向いて、それから顔をゆっくりと上に向けた。ふうー。深呼吸をする音。そして再び下へと向ける。次に、低く、小さな、しかしよく通る彼女の声が、部屋全体を支配した。

「いいんだ、それで」

 顔を上げる彼女。私も顔を上げた。そして、ギクリとした。彼女の口元はわずかに開いて、笑っていた。しかし、目はすわっていた。ただその黒目の底には、ギラつく、不気味な光があった。それは威嚇をするような、憎悪に燃える暗い眼差しであった。

 突然、私は裁きを前にする囚人の気持ちになった。そして思わず唾を飲んだ。

「うん」

「後悔するよ」

 再びギクリとした。しかし、ここで折れては、また同じ過ちの繰り返しであった。

「いいよ、後悔しても」

「ふーん。そっか、そっか……」

 彼女はその場をぐるぐると歩き始めた。ふと、何かを思い出したように立ち止まった。そして首をぐっと玄関の方へ向けた。

「ちょっと散歩してくる。頭冷やしたいから」

「……そう、いってらっしゃい」

 とぽ、とぽ。痩せて枝のようになった脚を動かしながら、彼女は玄関に向かった。ざあー。扉を開けた途端、外から土砂降りの音が聞こえてきた。勢いよく落ちる雨粒が、痛いほど強くコンクリートを打ち付けているのがわかった。

 彼女は傘を持たずに出ていった。そのことを知ったのは、既に彼女が外に出た後であった。閉まった玄関をぼんやり眺めていると、部屋に一本しかない傘がそこに置きっぱなしになっていることに気がついた。

「おい!X、傘!傘もささないでどうすんだ!おい!」

 私は玄関の方へと駆け出し、扉を開け、傘を持って叫んだ。しかし、彼女からの返事はなかった。見渡せど、辺りにはただ暗がりだけが広がっていた。夜は既に深く落ちていたのだ。

 一時間、二時間。緊張の残り香が部屋を静かにしたまま、ただ時間だけが過ぎていった。中々帰ってこない。流石に不安になった私は、彼女に電話を入れることにした。プルルルルル、プルルルルル。出てくれない。もう一度かけた。プルルルルル、プルルルルル。また出てくれない。もう一度かけた。プルルルルル、プルルルル。がちゃ。よかった。やっと出てくれた。

 しかし、電話口から聞こえるのは、いつもの聞き慣れた声ではなかった。切羽詰まったような、息の荒れた、真面目そうな男性の声が敬語で何かを話していた。

「もしもし、あの、聞こえていますか!」

 何だか向こうは騒がしいらしかった。しばらく呆然としたあと、やっと私はその声に応えた。

 その声は言った。

「このスマートフォンの持ち主の方のお知り合いですか?」

「はい、そうですが……」

「先程、この方が大型トラックが走っているところに突っ込んで、跳ねられた所を発見されました。只今救急車で病院に向かっているのですが、よろしければお名前を……」

 そこから先は覚えていない。

 頭が真っ白になっていた。再び電話からは色々な、叫ぶような声が聞こえてきたが、正直、何を言ってるのかよくわかなかった。何度か同じやり取りを繰り返した。そして、やっと電話越しに話している内容が理解できた。

 声に導かれるまま、私はタクシーで病院に向かった。

 病院に着いた時、彼女の死体はまだぐっしょりと濡れていた。

 彼女が去り際にいった言葉を思い出した。

「後悔するよ」

 今、やっとその言葉の意味を理解した。