《表現と結晶》エピローグ

 警察はXの死を事故によるものだと断定した。Xの両親とも、彼女の死によって初めて会うこととなった。しかし、その辺りのことは、もうあまり思い出せない。

 彼女の葬式にも参列した。会場からはひそひそと話し声が聞こえた。参列中、私はできる限り彼女との幸福な日々を思い出そうと努めた。初めて出会った日、初めて互いに本心を打ち明けた日、初めて二人が結ばれた日……。しかし、どれを思い起こそうと努めても、すぐ死に際の彼女とのシーンがフラッシュバックするのであった。あの「後悔するよ」という声と、焦燥し切った顔立ちと、威嚇するような眼差しが、絶えず私の前に現れるのだ。脳裏に焼き付いて離れないのだ。そして、それらを思い出す度に、悲しみというよりもむしろ後悔の涙が頬を伝った。

 日々は非情に過ぎていった、時間の痕跡を拭いさらないまま。最早、抜け殻同然だった。生きながら死んでいると言ってもよかった。死因は他ならない、自らの半身に殺されたためであった。

 荒れた日々が続いた。結局、同期との連絡は絶ってしまった。同人誌の話も、少なくとも私には関係のないものになった。身勝手だとは思うが、Xのことを思い出したくなかった。

 代わりに、とにかく色んなことを試してみようと思った。少年の日に断念したランニングを、およそ十年越しに再開してみた。思った以上に走れることに気がついた。思春期の頃のようにむしゃらに、沢山の本を開いてみた。以前に比べ、読書量が遥かに増えた。初めて、身体だけの関係ができた。都合がいいと思う反面、案外こんなもんかという感想を抱いた。職場の人間関係にも気を遣い、仕事にも精を出した。すべてが円滑に向かいそうだった。そして私は少しずつ、自分が彼女の嫌ったタイプの人間に近づいていることを感じた。

 日を追う事に、自分が嫌になった。しかし、どうすればいいかわからなかった。ただ威嚇するような彼女の顔だけが度々頭に浮かんだ。結局、それを忘れるためにはがむしゃらに、闇雲に、あるいは自暴自棄に何かをするしかなかった。今から思えば、こんな努力はどれも無駄骨であったと言ってよかった。

 ある晩、私は持ち物を整理した。すると、押し入れの中から彼女との写真を集めたフォルダが出てきた。まだ死んでから三ヶ月と経っていない頃だった。しかし、写真を眺めていると、それがどれも遠い昔のことのように懐かしく思えた。それは恐らく、これらの記憶が私にとって唯一愛おしむべきものであるからだった。

 その時である。彼女が死んで以来、私は初めて「あの表現」以外のXを思い出した。あの絶望した、復讐心に燃える女性ではなく、繊細で美しい、私の愛したXの姿が、かつての写真を通して蘇ったのだ。

 以後、毎日彼女の写真を持ち歩くことにした。何処に行くのも、何をするのも一緒だった。休憩時間がくれば、本と交互に写真を眺めた。家に帰れば、フォルダ全体を眺めた。そして時には涙を流した。私の失われた青春の記憶。崩れ去った初恋の思い出。泣きながら写真を抱きしめることも少なくなかった。

 そのような日々の中で、不意に「彼女は本当に事故死だったのではないか」という天啓が訪れた。この考えは次第に膨らんでいき、やがて拭い去りがたいものとなった。そうだ、考えてみれば当然のことじゃないか。こんなにも愛した人間が、こんなにも愛してくれた人間が、私を苦しめるために●●するわけがない。私を後悔させるために、●●するわけがない。ああ、自分はなんて馬鹿な思い違いをしていたんだろう。彼女が●●するなんてありえない話だ。きっと雨夜の中で周りが見えなかったに違いない。ああ、そうだ。そうだとも。彼女は●●じゃない。きっと本当に事故死だったんだ。

 私は生活を一変させることにした。彼女の写真をフォルダから出して、すべて生の状態で机の引き出しに入れることにした。書き物をしている時、本を読んでいる時、挫けそうになったら、いつもこの引き出しを開けばよかった。ランニングと読書の週間は続けていくことにしよう。しかし、あのよくない関係の女友達とは縁を切ろう。勿論、その尻拭いもする。今働いている職場も辞めよう。あの仕事はあまり自分には向いていない気がするし、丁度いいと思う。

 比較的に、前向きに生きる日々が続いた。私はがむしゃらに働いては辞めてを繰り返した。前を向いたからといって、物事が全部上手くいくわけではなかった。しかし、それでも立ち直ることが出来た。心の中に「あの頃のX」がいたから。しかし、時にはある映像がフラッシュバックすることがあった。そこには「後悔するよ」という声があり、絶望し焦燥し切った顔つきがあり、威嚇するような眼差しがあった。途端に、全身から脂汗が出てきた。私は両手で顔を覆った。息が苦しかった。「やはり」という言葉が頭に浮かんだ。しかし、そこから先を突き詰めることはどうしても出来なかった。

 彼女が死んでから一年が経とうとしていた。その頃、私はやっと自分でも働けそうな仕事に出会った。職場の人間関係も良好だった。最初、私は人を避けるように過ごしていた。休み時間も一人で本を読んで過ごしていた。しかし、次第に周囲の心優しい人達のおかげで、人と話すことの喜びを思い出すようになった。就職してから二、三ヶ月が経つ頃には、やっとではあるが、仕事にもその場の人達にも馴染むことが出来た。

 入社から半年後、私より二、三ほど歳の若い女性が新しく入った。小柄で、痩せ型の、あどけない顔つきをしたひとだった。しかし、その表情は何処となく張りつめたものあって、そのせいで私より年上にも見える気がした。私は何となしに、Xのことを思い出した。

 歳も近く、入社した時期も近かったからだろうか。私がこの女性の教育係に任命された。そのおかげもあって、他の社員より仲良くなるが早かった。生まれて初めて持つ後輩の存在に、ちょっと浮かれていた。後輩は私を慕ってくれていたと思う。時には他の社員から茶化されることもあった。「ああ、面倒臭いな」とも思ったが、正直に言うと、満更でもなかった。

 後輩の入社から三ヶ月くらいが経った。私達はそれなりに仲が良かったと思われる。ある晩、もう何度目かの仕事帰りの酒呑みに出かけることにした。次の日は休みだったからか、向こうは普段よりも酔っていた。やはり私はチョロかった。酔った相手の姿は、普段の数倍可愛く見えた。二人で飲み屋街を歩いている時、よたよたと歩くその体は、私にぶつかったり離れたりした。私も多少なりとも酔っていた。だからだろうか、自分に甘えてくる右隣の相手のことが、とても魅力的に見えた。

 もしかしたら、このままこいつと付き合うのも悪くないのかもしれない。無論、向こうがそれを承認してくれればの話だが……。そう思うと、走馬灯のように将来のことが頭をよぎった。多分、私達は楽しく暮らせるだろう。同じ職場で精を出し、休日には何処かへ出かけ、互いに笑い合い、夜になれば映画を観て、二人一緒に眠りにつく。きった夢も見ないほど深い眠りを共有できるだろう。もしかすると、それが私のずっと求めていた「幸福な生活」なのかもしれない。

 しかし、何かが欠けている。そして足りない何かのために、私は心からこの人を愛せないのである。

 その時である。ハッとして後ろを振り向いた。何処かで、あのギラギラとした眼差しが私を見ているような気がした。いや、後ろだけじゃない。二人を取り囲むこの人混みの何処かで、Xがこちらを見ているような気がした。不気味に光る大きな黒目で、絶望と憤怒に焼き尽くされた顔をして、威嚇するように「後悔するよ」の一言を口にしていた。

 私はその場で立ちつくした。そして、一人静かに笑っていた。

 こちらを心配する声が聞こえる。

「いや、大丈夫だよ」

 そう返すと、私は声の持ち主を駅まで送っていくことにした。仕事を辞めたのは、その一ヶ月後である。


 こんな事は初めてだった。仕事を辞めて一ヶ月、何もせずただボーっとしているなんて。ベッドの上にうずくまり、来る日も来る日も目覚めては寝てを繰り返した。私は不思議でならなかった。何故私達は幸福になれなかったのだろう。何処で私達は間違えたのだろう。

 「 もう少しのところで、僕はすべてを理解し承認することができるのかもしれぬ」。ふと、『マルテの手記』の数節を思い出した。「もう一歩踏み出すことができれば、僕の深い苦しみは幸福に変わるだろう。しかし、その最後の一歩を、僕はどうしても踏み出せないのだ」。

 ああ、そうだったのか。やっとXが正しいことに気がついた。『マルテの手記』は没落の物語なのだ。最初、マルテは敗残者としての運命に抗おうとする。しかし、彼の抵抗は失敗に終わる。そうでなければ、小説の後半のあの開放的な雰囲気を、どう説明できよう。個人の幸福を諦めたことによって、彼は初めて前を向くことができたのである。自分の人生が崩壊の過程であることを、悲劇であることを肯定したのだ。それこそが、小説の終結に至る過程で獲得した、彼のたった一つの勇気であり、どうしても踏み出せないはずだった「最後の一歩」なのだ。

 突然、心が明るくなって、力が湧いてくるのを感じた。何かをしたい気持ちで一杯になった。私はずっと無理をしていた。必然のことを悲観して、どうにもならないことを変えようと悩んでいた。しかし今、やっとわかった。自分が何をするべきなのか、自分がどう生きるべきなのか。

 私はベッドから身を起こした。本棚に向かい、『マルテの手記』を開いた。そしてカーテンをあけて、埃の積もった机に向き合い、何も書かれていないノートを開いた。突然、書く欲求に満ち溢れたのである。確かに、あまりにも沢山の時間が無駄に過ぎてしまった。振り返れば色々なことがあったかもしれない。しかし、両手を開いてみても、そこには何も残っていない。私は抜け殻だ。空っぽな人間だ。しかし、それでいいではないか。やっと、ずっと自分の躊躇っていた「最後の一歩」を踏み出す気になれたのである。

 時計を眺める。もう五時だ。朝焼けが地平線から昇り、燃えるような金色がこの世界を照らし出そうとしている。気がつけば、あんなに激しく降った雨も止んでいた。空には雲ひとつない薄明が広がっている。私はこの小説を書き終えなければならない。もうその時間だ。しかし、その前にやらなければならないことがある。もうわかってるはずだ。

 スピーカーに手を伸ばし、電源を入れた。毒薬のごとき音楽の告白に溺れたくなった。ベルクのヴァイオリン協奏曲が、《ある天使の思い出に》寄せられた音楽が流れ始めた。しかし、間もなくそれを止めた。ここで感傷に酔っては、きっと前と同じ間違いを繰り返して終わりだったから。

 机の引き出しを開いた。そして、そこにあった沢山の彼女の写真をビリビリに破り裂いた。目を逸らしていた。彼女は事故なんかじゃない。自殺したのだ。私を後悔させるために死んだのだ。本当は、出来ることならずっとそれから逃れて生きたかった。そう、これからもずっと。

 しかし手遅れだ。結晶はもう割れてしまった。