22/01/01

 初日の出を見た。思えば生まれて初めてかもしれない。日の出自体、偶然見かけることはあれど、ほとんど拝むこともなく生きてきた。綺麗だった。徐々に、ゆっくりと、黄金の輝きがあたりを焼き尽くしていく。しかし、気がつけばそれも終わっていた。地平線と繋がっていた太陽は、今や地から離れ、淡色の空を照らしている。それが少し寂しかった。あんなにも美しい時の訪れがあるのかと思いきや、次の瞬間にはそれが終わっているなんて。ああ、なんでもっとちゃんと見ていなかったのだろう。

 そう後悔する反面、初日の出を見に行く人々の気持ちがわかった気がする。感動は「私」と言わない。「感動した」と語る時、人は文字通り我を忘れるのである。だからこそ、感動は私に属さない。感動はこちらを感動させる出来事に属する。

 この感動をもう一度味わいたいから、多分来年も初日の出をみると思う。もしくは、今度ひとりで海辺に日の出を見に行こうかと思っている。私を感動させるものだけが回帰する。つまり永劫回帰だ。


「青春」という言葉を耳にする時、人はよく詩的で、ロマンチックなものを思い浮かべる。あたかもそこに自分の最高の思い出があるかのように。しかし、私はそうは思わない。青春というものは本来、醜く、痛々しく、いたましいものだと思われる。少なくとも自分の場合、自分の青春時代に戻りたいとは決して思わない。なるほど、青春をやり直したいとは思う。例えば三年前の一月三十一日をやり直したいとか、そういう気持ちなら大いにあるかもしれない。しかし過去の自分を振り返ると、今なら決してしないことや、思い返せば恥ずかしくて仕方ないことを沢山している。それに、思い出したくもない嫌な仕打ちも多くあった。自分を取り囲む不愉快な環境、不条理な現実もある。だからやり直したいとは思うが、戻りたいとは思えない。

 それでも思い出は美しいまま残り続ける。過去を回想すれば、感傷的な気持ちに駆られ、涙を流すこともあるだろう。しかしそれは、追憶と記憶が別物だからである。追憶に感傷がつきまとうならば、それは追憶が絶えず喪失したものへと向かうからだ。

 ドゥルーズが「結晶」という言葉を用いる時、そこにはある特殊な意味合いが含まれている。記憶と結晶。この二つの言葉が結び付けられる時、誰もが美しく、ロマンチックなイメージを思い浮かべる。その代表格が、スタンダールの語る「結晶作用(cristallisation)」だろう。対象から、対象との記憶から、美点だけを引き抜き、結晶化する。それは非常に詩的な意味が含まれた言葉である。

 ドゥルーズの語る「結晶」は、まさにそれと対照的である。彼によれば、時間の結晶の特徴は、その構造が「不透明で濁っている」点にあるからだ。一見すると水晶玉は美しいが、それを通してみると、あらゆるものが歪んで見える。結晶の本質は、その内容が曖昧で、混濁していることにある。だからこそ、ドゥルーズは「結晶」を決して美しくないものとして描き出す。そして、曖昧で濁った結晶から抜け出すために、結晶を割ってその外に出なければならないと語るのである。

 先日、『表現と結晶』というタイトルの小説をブログに載せた。それがどう受け取られてるかはわからないが、私は青春の痛々しさ、いたましさと、不透明で濁った時間の結晶を描きたいと思った。語りたいことは色々あるが、可能な限り抑えていこうと思う。作品を説明することは、それ自体作品の失敗を意味する。作品によって伝えたかったことが伝わってないことの現れだから。それを踏まえるならば、今私がしていることは、それ自体みずからの失敗を語ることに等しい。

 そう、青春とは痛々しく、いたましいものだ。私もまだ二十中盤だから、人から見ればまだギリギリ青春が許された歳なのかもしれない。そして実際、過去を思い返して苦虫を潰したような顔をする自分自身、今なお結構痛々しい奴なのだろう。しかしとにかく、それでも自分が考える「醜い青春」、読んでいて顔をしかめるような、いたましい青春を描きたいと思った。そういう意味では、この小説は成功だと思われる。主人公は結構キモい奴だし、ヒロインもまあまあ嫌な性格をしている。そしてその二人が、決して美しいとは言えない時間を共に過ごす。私の考える青春、いたましい若き日々そのものだ。どうにもならないことに頭を抱え、悩む必要のないことに悩み、視界が暗く、前が見えず、ただ壁に頭をぶつけることしかできない。私を含め、悩みは多いが知恵の足りない若者の日々においては、そんな光景がよく見られる。

 しかし、それを描くという点以外では、あまり成功していないように思われる。この小説には笑い所が沢山あるが、それも伝わっていないようだ。主人公は「自分が書くのは自伝でもなければ、恋愛小説でもない」と語っているが、一見すればその内容は自伝だし、恋愛小説である。この矛盾、馬鹿らしさは、結構笑えるというか、滑稽だと思うのだが、しかしどうやらそれに笑っているのは自分だけらしい (というか、そういう意見が寄せられた) 。しかし実際、これは自伝でもなければ、恋愛小説でもない。少なくとも、私は小説に書いたような経験を一度もしたことがない。ヒロインのモデルになった女性もまたいない。強いて言うなら、このヒロインのモデルは私である。私が女体化したら多分こんな感じだと思う。書いていてそんなことを思っていた。

 小説の内には沢山のパロディが含まれている。たとえばヒロインの死に方は、小説の冒頭で言及された『アンナ・カレーニナ』のモロパクリである。アンナは「あなたはいつかきっと後悔する」と言い残して自殺する。そして彼女の死後、恋人のヴロンスキーは、いくら昔の彼女の面影を思い出そうとしても、死の直前の憎しみに満ちた、威嚇するような眼差しをしたアンナしか思い出せないのである。あと、小説全体は『マルテの手記』を下敷きにしている。その他にも、パロディしたものは沢山ある。語ればキリがないほどだ。中にはトーマス・マンドゥルーズの文章をほとんどそのままパクった箇所もある。そういう意味では、これはやはり「笑える小説」である。

 しかしそれも、伝わっていないのならばほとんど意味の無いことだ。今回の小説について、反省点がいくつかあるが、一つは「あまりにも個人的すぎた」ということだ。それは決してあまりにもパーソナルな経験に基づいて書いたということではなく、ただ私自身の趣味を反映させすぎたということだ。公開して気づいたのは、この小説を読んで笑うのは私くらいだということだ。「あまりにも暗くすぎる」というのが読んでくれた方のひとりからもらった感想だった。私自身は、ほとんどずっと笑いながら書いていたのだが、書き手の気持ちというのは案外伝わらないものである。

 二つ目の問題は、一つ目のものと密接な繋がりを持っている。それは「あまりにもスノブすぎた」ということだ。自分に特有の貴族趣味というか、気品あるものへのこだわりみたいなものが前に出過ぎた気がする。しかし、品性へのこだわりは行き過ぎれば下品になる。人間、高潔であることを望むなら、ある程度俗っぽくあるべきである。

 本来、実生活をテーマにした小説というものは、当時の社会の風俗なり習慣なりが大きく反映されているものである。トルストイにしてもプルーストにしても、彼らの小説を読むことの面白さは、当時のロシア/フランス社会に生きる人々の生活を覗き見できることだ。そういう意味では、所謂「リアリズム文学」のいい所は、当時の人間がどんな風に生きていたかを知ることが出来る点、今とは別の時代の特定の地域の価値観にどっぷり浸れる点にある。私が書いた小説には、インターネットとか同人誌の存在を登場させることは出来たが、しかし現代人の風俗・習慣がちゃんと反映されてるかとなれば、決してそんなことはないと思う。音楽についても、クラシックの話しか出来なかったが、本当はロックやヒップホップ、アンビエントの話もしたかった。要するに、もっと俗っぽい小説を書きたかったのに、それが出来なかったのである。

(一方で、この問題は別の問題をも提起することになる。それは「昨今における文学の意義とは何か」ということだ。昔は小説が当時の社会文化を伝える - 代弁する役割を果たしていたが、今はそれが漫画や映画にとって代わっている。事実、今どきの若者は、最近出版された小説よりも、ネット上で見れる漫画や映画の方に多くの共感を寄せるだろう。ならば、現代において、文学の役割とは何か。書くという行為[エクリチュール]にしか出来ないこととは何か。小説、それは詩と論文の中間に位置するものである。絵や映像のような具体性を伴わないからこそ、より直接的にイメージに訴えかけることが、文学においては可能なのではないか。)

 そして三つ目の問題は、上記二つの問題を総括することとなる。つまり、「自分のために書きすぎた」ということだ。人に読ませるものならば、どうせなら他人が読んでも楽しめるものにすればよかった。あまりにも個人的な趣味を反映させすぎた。もっとひとのために書けばよかった。そんなことを思っている。だから次回以降は、私の周囲の人間や、私から遠く離れた人、あるいは私が忘れずに覚え続けている人など、とにかく他人が読んで楽しめるものを書きたい。どうせ読まれるなら、悲しむ姿よりも喜ぶ姿の方が見たい。

 自分のために何かをするなら、ずっとひとり遊びをしていればいい。正直、私はそっちの方が幸せに生きられると思う。永遠に終わらないひとり遊びができる砂場があれば、一生そこに閉じこもっている自信がある。しかし、そうはいかない。生きていく上で、人は他者と、社会と向き合うことを迫られる。しかし、もしそこに同胞がいるならば、その同胞のために何かをした方がずっといい。どうせ生きるなら、私は誰かのために生きたい。これからの目的は、自分以外の者のために何かをするということだ。どうせなら自分だけでなく、他人をも喜ばせたい。

 以前ある方がブログの中で「文学とは、劣等感を抱え、まともに生きれない人間が社会と繋がれる唯一の行為である」と書いていた。確か、その方の読まれた小説についての書評でそのような表現が出てきたと記憶している。私もそうだと思う。文学だけではなく、芸術それ自体は、それによってしか社会との繋がりを保てない人間のための、唯一の拠り所である。それは科学者が科学研究をしなければ生きていけないのと同じだ。

 確かに、芸術にせよ科学にせよ、それに何か大きな意味が与えられることがある。事実、芸術は人間の思考に革命を与え、科学は人間の生活に革命を与える。そういう意味では、芸術と科学の力は政治よりも強い。しかし、権力を保持し続けるのは常に政治である。そして芸術家や科学者たちは、権力に対して無力であり続ける。もし政治よりも芸術、科学の方が強いと語る人間がいれば、それは世の中が見えてない馬鹿者である。いつの時代も、芸術と科学は、当時の権力から庇護されるか、あるいは迫害されるかをして生き長らえてきた。だからそこにはある種の折衝が起こることとなる。

 さて、話が逸れてしまった。とにかく、私は上記の意見に賛同である。文学もとい芸術は、社会をまともに生きれない人間が唯一他者と繋がる方法として残されている。おそらく私には、書くことによってしか繋がれない人間がいる。私は芸術家だ。たとえいつかドゥルーズについて本を書くにしても、ドゥルーズは哲学と芸術を同一視していたため、彼について書くことは芸術について書くことと同じである。そして、自分を芸術家だとみなすことは、決して大それた話ではない。多分それは、自分が出来損ないの人間であると認めることとほとんど同義である。しかし多分、そういう出来損ないの人間にしかできないことがこの世にはある。私は心のうちでそう信じている。