22/01/06

 不思議だ。寝たい時に眠れず、寝てならぬ時に眠りが訪れる。いつからか、そんな毎日が繰り返されるようになった。自律神経が狂っているというやつなのだろう。

 不眠に悩まされることは、これまでにも何度かあった。しかし、かつての私にとって、不眠は一つのサイクルであった。少なくとも以前は、ある一定期間不眠に耐えれば、また元のように眠れる日が続くのであった。しかし、今は違う。否、もしかするとここ一年間、自分の睡眠のサイクルを管理できないでいるかもしれない。浅い眠りで外を彷徨い、家に帰れど瞳が閉じれず、やっと眠れると思った時には、既にまた外に出なければならない。何もない日が訪れれば、たまにはゆっくり休もうと思うが、すると今度は一日のほとんどを眠りに費やしてしまい、結局眠るべき時にまた眠れなくなる。昼に眠り、夜に覚める。そして暗がりのなかでひとり、本を開くか、液晶画面に目を泳がす。

 夢の不気味さは、目覚めれば夢を忘れてしまう点にある。けれども夢の印象は、目覚めた後にも残り続ける。夢の中で見た断片が、日中頭から離れないことがある。夢の残した幸福な印象、あるいは悲しげな印象、あるいはその記憶。

 時折、生活のさなかでかつて夢みたことを思い出す。そして数秒の間、これが夢で起きたことなのか、それとも現実で起きたことなのか、どっちだったかを確認しようとする。そう言えばあんなことがあったな。いや、これは本当にあったことなのか?そう、違うはずだ。思い違いでなければ、これはかつて見た夢の記憶だ……。

 美しい空想にこもって生きる事が出来たなら、一体どれほど幸せだろう。現実に傷つくことなく生きられるなら、一体どれほど楽だろう。どうすれば後悔を忘れ、過去に諦めつけることが出来るだろう。それが行為の果てに得られた後悔ならば、諦めもつく。「結局、こうなるしかなかったのだから」で説明がつくから。最も恐ろしいのは、中断された過去への後悔だ。過程の途中で中断されているからこそ、諦めることが出来ないのである。可能性が尽くされていないからこそ、「続き」を求めてしまうのだ。

 人生で初めて不眠に悩まされたのは、受験期であった。私はそんなに器用ではなかったから、遊びと勉強を両立させることなど出来なかった。だから、大学受験のために距離を置いた友人が何人かいた。加えてその頃から、私は以前に増して読書に熱中するようになった。当時の私には、自分の気分を乱す他の友人たちが目障りで、邪魔に思えて仕方なかった。学習を重ねる上で最も邪魔な存在は、友人である。あの頃の私は、本気でそう考えていた。

 結果的に体調を崩し、受験もまともに出来なかったので、そんな風に考えること自体間違ってたのかもしれないが。

 ニーチェが『喜ばしき知恵』の第五章で書いた、専門家についての文章を思い出す。「自分の狭い領域にしがみつき、見分けがつかないほど押しつぶされ、ぎこちなく、均衡を失い、やせ細り、(……)ついに魂は奇形で歪んだ姿と化してしまう」。しかし人には、そこまで突き詰めなければ、たどり着けない何かがあるのだ。「専門家は、自分の専門の犠牲になるといった代価を払うことで専門家となる」。まさにその通りだ。だからこそ、ニーチェは次のように書き加える。「いやはや、専門家の学識を備えた我が友人たちよ!私は諸君を祝福したい──その猫背ゆえに!」

 私は今、二つの世界のあいだで揺れている。学術の世界と享楽の世界のあいだで。事実自分は、遊び人と言うにはあまりにも真面目すぎるし、学者というにはあまりにもちゃらんぽらんだ。ふとした時にこのことを思い出して、ため息をつく。そして考えるのである、「どうしたものか」と。

 そういえば、今日は雪が降っていた。久しぶりに見る雪は美しかった。この様子なら、明日もまだ雪景色を見れるかもしれない。