22/01/11

 行為の危機、それは説明不可能な世界の現前から生じる。元来、人は行動に対して二つのイメージを抱くものだと思われる。一つはシチュエーション(状況) → アクション(行動の発生) → シチュエーション(別の状況の出現)で、もう一つはアクション(行動) → シチュエーション(状況の発生) →アクション(別の行動の出現)だ。あれがあるからこれがあり、あれのせいでこうなった。因果性の世界である。それは原因と結果が判明であり、一切が有機的に組み合わさり、解き明かすことの可能な世界だ。

 しかし、本当にその捉え方は正しいのか。シチュエーション→アクション→シチュエーション、あるいはアクション→シチュエーション→アクションでこの世界を説明づけることは、本当に可能か。そんな単純に片付けられることの方が少ないのではないか。私が見るもの、それは常に理解可能なものよりも理解不可能なものの方が多いはずだ。

 直面するのは、説明不可能な世界の現前である。因果性が断絶され、原因と結果が繋がりを持たず、一切の意味と理由が曖昧になった世界が、私の前に現れる。その時、行為の危機が訪れる。今や人は、蝶番の外れた時間の傍ら、あちらこちらをさまよい歩き、見えざるものを幻視する。理由なき行動、意味のない発言を繰り返し、「何故そうなったのか」が延々と不明瞭であり続けるのだ。『タクシードライバー』や『キングオブコメディ』の主人公がそうであった。妄想に取りつかれ、彷徨し、現実と空想の区別がつかない。言ってることとやってることがバラバラになり、「何故こうなったのか」「何が間違っていたのか」もわからないまま、物語は進行する。説明不可能な現実を前にして、彼が望むは奇跡が起こることだけだ。さもなくば、世界を自分と共に破壊するしかない(だからどちらもテロルに走る)。


 後期ドゥルーズのテーマの一つとして、信仰あるいは信頼の問題が挙げられる。ただし、それは決して宗教的信仰の話ではない。むしろ彼方にある世界(天国と地獄)ではなく、改善された世界(革命後の世界)でもない、この世界そのものを信じるということをドゥルーズは説いている。そして彼によれば、それは「身体を信じること」と同義なのである。

 何故この世界を信じることが、身体を信じることとイコールなのか。彼が度々取り上げるスピノザのテーゼを思い出そう。「我々は身体が何をなすのかを知らない」のである。言い換えるならば、それは「身体の持つ可能性/潜在性を知らない」ということでもある。我々は身体が何をなすのかを知らない。自分の能力がいかなるものであり、また自分の脳がどのように機能しているのかも知らないはずだ。身体にはまだ見ぬ可能性、今日までのこちらの知見を覆す潜在性が含まれている。ならば身体に目を向けるということは、今ある世界とは別の世界を求めることではなく、現時点で、既にこの世界の内に特異なものが潜んでいるのだと信じることと同義である。もし我々が何らかの問題に直面するならば、その際我々に求められるのは、今とは別の環境を求めることでは決してない。むしろ既に現時点で、何処かに現状の問題から抜け出す糸口が残されているのだと知ることだ。

 これはドゥルーズが初期から掲げている超越論的経験論の問題にも関わってくる。一つの出来事の実現のうちには、今はまだ実現され尽くしていないことが含まれている。一つの経験のうちには、今はまだ理解不能な領域が含まれている。それは子供の頃の体験が、大人になってやっと理解できるのと同じである。目を向けるべきは、この経験不可能な経験、経験を乗り越える経験それ自体の領野である。元来、人間の思考能力は、理解不可能なものを前にした時にしか発達しない。思考の無能力から出発しなければ、人は理性的になることが出来ないのである。理性的な人間とは、問題に直面する度に理性化のプロセスを組み立てる者のことなのだ。

 ドゥルーズはその点に着目する。もし経験が絶えず経験それ自体によって乗り越えられるならば、丁度いまの幸福を未来の不幸が打ち砕くように、現在の困難が未来の出来事によって打ち負かされることは可能である。時がかつてと異なった真実を私に見せるならば、そこにこそ私の現在を改善する余地があるのかもしれない。一見すると悲観すべきものに思えることにこそ、我々にとって最大の力が含まれているのではないか。

"別の世界を信じることではなく、人間と世界の絆、愛あるいは生を信じること、不可能なことを信じ、それでも思考されることしかできない思考不可能なものを信じるようにして、それらを信じることだ。"

「世界が悪質な映画のように我々の前に出現する」と、ドゥルーズは書く。私が直面するのは、自分の無力さを、自分の馬鹿らしさを、みずからの耐え難い凡庸さを示す現実である。その時、この世界に対する信頼が喪失される。ならば取り戻さなければならないのはこの信頼である。自分が無力ではない、この馬鹿らしさから抜け出せる、この耐え難い凡庸さを終わらせることが出来る、この恥を償うことが出来る。そう信じなければならない。この世界の内に、既にそこから抜けだす出口が備わっているのだと知らなければならない。信仰あるいは信頼とは、決して宗教のごとく与えられた言葉を鵜呑みにするのではなく、むしろ思考の限界に直面することによって、思考の臨界点に向き合うことで、みずからを乗り越える経験が存在するのだと知ることなのだ。

 かつて『ディアローグ』の中で、ドゥルーズは次のように書いた。「抜け出すこと、それは既になされているのであって、もしそうでなければ決してなされることはないだろう」。出口は既にこの世界のどこかに存在する。経験の内にある経験不可能な領野に、出来事に内在するまだ実現されていない領域に、思考に潜む思考不可能なテリトリーに、問題を解決する糸口が存在する。目を向けるべきはこの永遠に尽きることのないフロンティアである。そして信じなければならない、この世界は「悪質な映画」のようなものではないと。「人間はみな愚かで卑しいものだ」と語り、私に低劣であるよう強いるものどもから、または既に低劣であり愚劣なものと化している自分自身から、時には自らを傷つけてでもいいから、自らを守らなければならない。そのためには、もはや一つの方法しか残されていない。つまり、信仰を持つこと、この世界そのものを信頼すること……。

"現代的な事態とは、我々がもはやこの世界を信じていないということだ。我々は自分に起きる出来事さえ、愛や死も、まるでそれらが我々に半分しか関わりがないかのように、信じていない。(……)引き裂かれるのは、人間と世界の絆である。ならば、この絆こそが信頼の対象とならなくてはならない。それは信仰においてしか取り戻すことのできない不可能なものである。"

"我々は一つの倫理あるいは信仰を必要とする。こんなことを言えば、馬鹿者たちは笑い出すだろう。それは他の何かではなく、この世界そのものを信じる必要であって、馬鹿者たちもやはりその世界の一部をなしているのだ。"


 この事から、後年彼が何故ライプニッツ論を書こうと思ったのかを憶測することが出来る。ドゥルーズはその最初期から、ライプニッツに対して度々言及をおこなってきた。しかし彼がライプニッツのために一冊の本を書くことは、晩年になるまで一度もなかった。信仰あるいは信頼の問題が大々的に取り上げられる『シネマ2』の中でさえ、ライプニッツはあくまでニーチェによって乗り越えられる形で言及される。そんな彼が、何故ついにライプニッツ論を書こうと思ったのか。その理由は、ライプニッツもまた彼と同様に、世界の悲惨さを前にして信仰を持つ意味を痛切していたからではないか。

"神学的な理想が袋叩きにあっていた時、世界が神学に逆らって、あらゆる「証拠」を、暴力や悲惨を絶え間なく積み重ね、大地がおお揺れし掛けている時、それを救出する手段があるかどうか。"

 ライプニッツ楽天主義について、ドゥルーズは次のように述べている。「ライプニッツ楽天主義は、無数の呪われたものに根拠を持っているが、彼らは様々な世界のうち、最良のものの基盤である。彼らは可能な進歩の無限量を解き放つ」。最良なものは一つの結果に過ぎない。もとい、最良のものは、常に結果としてしか獲得できない。世界の悲惨さを前にして、そこから救いうるものがあるかどうか。「<善>から救いうるものを救うということ」。不条理に直面した時にこそ、私の理解は最良に達する。善は廃墟に咲く花である。それはこの世界の悲惨さを土台にしなければ芽を出すことがない。

ベルゼブルの憎しみの叫びは、下の階を震撼させるのだが、この叫びを聞くことなしに、我々は最良の世界を考えることなどできない。"

 この時、ドゥルーズの哲学はある奇妙な二元論を提示することとなる。それは思考可能なものと思考不可能なものの二元論、デカルトとは全く異なる心身二元論だ。そこにおいては、理性は自らの思考する能力を拡大するために、絶えず思考不可能な「身体」の可能性/潜在性を必要とするのである。

"哲学において肝心なことは、もはや古典的哲学が体現しようとしたような絶対的思考ではなく、不可能な思考であり、つまりそれは素材を洗練することであり、それ自体としては思考不可能な諸力を思考可能にするのである。"