22/01/16

 着飾るということには不思議な作用がある。ステージ上のメイクをしたバンドマンは、普段とはまるで違う、「別人」がそこにいるのを覚える。人が衣装を着るのではい、衣装が人を着るのだ。その人の精神状態が容姿に出るのではなく、むしろある容姿のために、人は一定の精神状態を持つよう強いられる。そしてこの衣装の作用、表面の作用を通すことで、自分がどういった人間であるかを理解することさえ可能になるのである。

"僕はその頃、ある種の服装から直接流れるらしい影響力のようなものを知ることができた。そんな古い衣装の一つを着ると、容赦なくその奇怪な力に支配されるのを覚えるのだ。僕の体のこなしや顔の表情、偶然な思いつきのようなものまで、もう自分だけの自由にならなかった。(……)しかし、こんな風な仮装がすっかり僕自身を失わしてしまうということはできなかった。むしろ反対に、僕が色んな姿に変化すればするほど、かえって自分というものがはっきり意識されてくる態のものだった。"

 優しすぎるということは、美徳なように見えて実は悪徳である。かつてモーパッサンは次のように書いた。「この人の大きな力であり、大きな弱点でもあるのは、その善良さであった。愛撫したり、恵み与えたり、抱擁したりするのに腕が足りないという善良さであり、創造主的な善良さであった。散漫で、抵抗力のない、意志の神経が一本麻痺しているようなもの、精力のどこかがぽっかり穴をあけているようなもので、言わば殆ど悪徳であった。」

 好意の終わりは、相手に拒絶された時よりも、むしろ相手に幻滅した時にこそ生じる。拒絶したいならば、情けをかけるのではなく、幻滅させなければならない。言い換えるならば、誰かへの好意とは、拒絶されても幻滅しない限り終わらないということだ。


 自分が知らないものほど、人はよく語りたがるものだ。その人が強調すること、あえて語ろうとすることは、それだけその人に不慣れなことである。

 最近になって初めて鬼の『獄窓』を聴いた。実に美しいアルバムだ。特に『糸』という曲が好きだ。せっかくだから、お気に入りの歌詞を引用しようと思う。「とめどない情念の涙/隣には泣きつかれ 眠るモナリザ/大人には 見えない世界/大人がいないと生きていけない/ちぎれない 糸なのに/聞こえない いつかのハーモニー/度重なる転校/甘い玉子焼きのいつもの弁当」。

 この箇所だけ読むと、一連の歌詞に続く「甘い玉子焼き」が浮いているように見える。しかし違う、この「玉子焼き」は主人公の成長を表しているのだ。該当する歌詞は二番のバースの最後に来るが、一方で、最初のバースでは日曜の朝に玉子焼きを作る主人公の姿が描かれている。彼は「度重なる転校」と共に少年時代を過ごす中で、次第に玉子焼きを上達していく。それは彼が親に頼れない子供であることをも意味している。

「糸」という言葉の使い方も印象的である。「運命の赤い糸」という言葉が示すように、本来、他者との関係において「糸」という言葉は、何かロマンチックな、肯定的な意味合いで使われることが多い。しかし、この曲の場合は違う。主人公は、まさに「ちぎれない糸」のために苦しんでいる。歌詞の中では、彼が家族との関係に悩まされている姿がよく描かれる。自分を苛むものから自由になりたい、家族のしがらみから抜け出したい。しかし、家族ほど近い他者はいない。文字通り、そこには「ちぎれない糸」がある。無力な子供は、大人には見えない世界で生きているが、しかし大人がいなければ生きていけない。

 曲を聴いてる時には感動するが、改めて歌詞を読むと、それが実に平凡でびっくりすることがある。歌詞というものは、おおよそ文字に起こしてみると大したことのないものばかりだ。どんなに陳腐な表現でも、音楽が感動的なら、それが途方もなく意味のあるものに聞こえてくる。特別な文章表現に聞こえてくる。しかし、稀に歌詞すら美しい音楽というものが存在する。鬼というラッパーの楽曲の幾つかは、そのいい例である。

 一体、人は何を持って文章を「文学的」とするのか。少なくとも言えることがひとつある。それは、文学とは決して感情表現ではないということだ。文学とはむしろ、感情の描写、あるいは感覚の描写を目的とする。「あれが好きだ」と語る時、その人を突き動かしているものは一体何か。一つの感覚にとらわれる時、一体いかなるものがその裏で作用しているのか。感情を解体し、感覚を解剖する過程に辿りついた時、文学が誕生する。「言葉が光/ラッパーが影/だが言葉がラッパーに光をあて成り立つ」と鬼が歌う時、彼は真実を述べているのだ。作者が主体になるのではなく、言葉が、描写が主体になる時、それこそ文章が文学的になる瞬間である。


 どんな時代であろうとも、人が最も幸福にしやすい相手とは、それだけ自分から離れている相手である。時代や地域に関係なく、ゴッホの絵はあまたの人々を感動させた。しかし彼の身内は、むしろ彼が絵に固執するために苦しんだのではないか。ゴッホから遠く離れた人ほど彼の絵に感動し、彼に近い人ほど彼の絵のために苦しんだのだ。無償で何かを与えたいならば、距離が必要である。自分に近いものほど、人は傷つける傾向にあるのだから。

 友情の美しさは距離にある。かつてドゥルーズは、哲学者を次のように定義した。「哲学者、知恵の友、すなわち知恵を求めど知恵を所有することのない者」。それに倣って、私は友情を次のように定義したい。「友情、つまり相手を求めても決して相手を所有することのない感情」。

 恋愛の特徴が距離の放棄にあるならば、友情の特徴は距離への固執にある。自分が相手のものではない (相手が自分のものではない) 以上、友情は距離をとる事を強いられる。気になることがあっても、「一線」を越えてはならない。自分の (あるいは相手の) 触れてほしくないところを避けるために、無関心を装わねばならない。私は友人に恥をかかせないし、友人もまた私に恥をかかせることがない。

 これは距離の為せるわざである。距離をわきまえること。尊敬のために無関心を装うこと。恥をかかせず、苦しみを与えないこと。相手を傷つけず、自分を傷つけない距離を保つこと。身体の接近と共に心の距離を埋めようとするのとは反対に、友情はまさに身体が決して交わらないからこそ距離を保つことが可能になる。私は今日までに出会ったすべての友人に感謝している。