22/01/21

"我々は身体を信じなければならないが、生の胚芽を信じるように、聖骸布やミイラの包帯の中に保存され、死滅せずに、舗石を突き破って出てくる種子を信じるように、それを信じなければならない。"

 ある日暮れ頃、電車に揺られながら、私は突如永劫回帰の意味を理解した。何を見たわけでもなく、何を聞いたわけでもなかった。ただ、それが明らかな形をもって目の前に現れた。こう書くと、少しスピリチュアルな印象を与えるかもしれない。しかし驚くべきことに、これは極めて論理的は理解を伴う出来事であった。

 きっかけは先日の読書会であった。友人と主催する読書会で、私はドゥルーズニーチェ論を扱った。その際、もっぱら話題の中心になったのは、ドゥルーズによる永劫回帰解釈であった。彼のニーチェ読解はいささか特徴的である。ニーチェの遺稿集に基づいて論述を進めるからだ (「ニーチェの諸作品は、それらと同時代に書かれた『遺稿』と一緒でなければ読解することが難しい」と彼は書いている)。なるほど永劫回帰の思想は、『ツァラトゥストラ』をはじめとして、ニーチェの様々な著作に現れる。しかし、それが断定的に書かれたことは一度もない。『ツァラトゥストラ』の中でさえ、それは間接的に語られるに過ぎない。ある箇所で、永劫回帰は動物たちの口から語られるが、しかしツァラトゥストラはそれを否定する。永劫回帰の真の意味を理解したいならば、我々はニーチェの遺稿集を参照にしなければならない。

 やがてドゥルーズは一つの結論にたどり着いた。永劫回帰とは、ただ異なったものだけが回帰する現象であると。美しい音楽に感動した時、人はそれを繰り返し聞くことを求める。その美しさが特異的であるからだ。「類似物も等価物もない」、置き換え不可能なものがそこにある。それを通さなければ得られない感動がある。私は再びそれを聴くことを求める。「たった一度だけ」は繰り返されない。一度きりのものは、私を感動させない。ただ「もう一度」と求められるものだけ繰り返される。否、繰り返されるのを求めるものだけが回帰する。つまり、永劫回帰

 永劫回帰をこのように理解するならば、それはヘーゲル弁証法に真っ向から対立することとなる。弁証法においては、否定的なものの回収が原動力になる。疎外されたもの、廃棄されたもの、矛盾を引き起こすものを、自己に結びつけて解消すること。それが前進を引き起こし、より善い方向に向かうよう仕向けるわけだ。しかし、永劫回帰においては、その反対ともいうべきことが起こる。そこでは絶えず同じものが、「異なったもの」として求められる。丁度ひとつの詩を読む度に別の意味が見出されるように、ひとつの「同じもの」が絶えず異なった意味を伴って私の前に現れる。読書会の中で、「永劫回帰は依存性に近い」という意見が出たが、それは正しい。永劫回帰とは依存症である。「たった一度だけ」ではなく、絶えず「もう一度」を求めること。一回が二回になり、二回が三回になり、三回が数え切れないものになること。生成し、多数化すること。その時、人は前進するわけでもなければ、後退を求めるわけでもない。ただ歯車が回るように変化が生じる。同じ「異なるもの」が現前する度に、地震が起こるかのように運動が生じるのだ。

 「パスカルの賭け」という思想がある。要約すれば「神がいようといまいと、神がいる方に賭ければ人間は確実に幸せになれる」という考え方だ。しかし弁証法と同様、永劫回帰はそれの反対に向かう。私は再び回帰して欲しいものに賭ける。その時、こちらが幸福になるか不幸になるか、正しいのか間違っているのか、それは大した問題にはならない。ただ繰り返されて欲しいからこそ、その方に賭けるのである。

 モネの睡蓮への感動が、彼のあまたの睡蓮の絵画を生み出した。「モネの最初の睡蓮こそが、他のすべての睡蓮を反復する」とは、まさにその通りである。異なったものが回帰するとき、時計の針は動き始める。夕焼けを見たときに覚える感動は、これからも絶えず私を訪れるだろう。それを見なければ得られない感動があるからだ。その時、私は前進もなければ後退もない。ただ変化は生じる。変化を求めて異なったものに至るのではなく、ただ同じ「特異なもの」に触れる度に変化が生じるのだ。私が何処かへ向かうのではなく、ただ永劫回帰が私を何処か別のところへ連れ去ってくれるのである。

"帰還する死者たちだけが、弔いもせずあまりにも早く、あまりにも深く埋められた者であるということ、そして後悔は、記憶過剰よりもむしろ追憶の徹底操作における無力あるいは不調を示しているということ、これが真実ではないだろうか。"

 よって永劫回帰とは、再び生きるということ、再来するということ、遅れと共に生きるということである。知性は遅れてやってくる。過去のことを思い出して、やっと当時の真意に気づくことがある。私は愚かだから、誰かの語る言葉の意味とか、複数人のたち振る舞いのぎこちなさとか、自分が思い込みで済ませていることなどに、気づかないでいることが結構多い。私が直面する出来事のうちには、常に現在では理解し得ない余白がある。ある側面から見れば既に生きたはずのものが、別の側面から見れば、未だかつて生きられたことのないものとして現前する。 かつて生きられなかったものを、再び、新たに生き直すということ。それこそが永劫回帰の真意である。

"反復によって私達が病むとすれば、私達の病を癒すのも反復である。反復によって私達が束縛され破壊されるとすれば、私達を解放するのも反復であって、それら二つのケースにおいて、反復は己の「悪魔的」な力を証示している。治療の全体は、結局のところ、反復というひとつの旅である。"