22/01/26

 読書家の喜びは、いい感じの文章表現を見つけてニヤニヤすることにある。本を開くことの楽しみは、まさにかつての自分では言い表すことの出来なかったものを知ることだ。

「行き止まりならやり直せるかい/ここは罪深く暗い/鼠と猫が仲良くゲロ啜る/金蝿の羽音が耳くすぐる」。好きな歌詞だ。該当する環境に身を置いてるわけではないが、自分に相応しい描写に聞こえる時がある。ああ、これは俺のことだ。暗い映画や悲しげな音楽には不思議な作用がある。慰められたわけでもないのに、あたかも同胞に出会い、自分が理解されたような感覚がする。

 感動は麻薬だ。サイケデリックスの効果のように、世界が普段の数倍綺麗になる。現前する全てが美しく見え、吐く息の白さにさえ意味があるように思えてくる。キース・ジャレットが一九七六年に録音した札幌での演奏の模様を耳にしながら、汚い都会の夜道を歩く。薄暗い路地に落ちるゴミを、不透明な街灯が照らしている。しかし、それすらも詩的に見える。冬の冷たさが緊張感を与え、私の目にする一瞬を劇的にする。何気ない風景が、突然スローモーションになって、世界が反転する。これはまさに感動の作用だ。

 キース・ジャレットの音楽は、思えばもう十年近く聴き続けている。決して懐かしさを覚えることはなく、ただ聴く度に新しい誰かに出会ったような感動を覚える。私は誇張してこんな事を書いてるのではない。去年の終わり頃から、キース・ジャレットの全作品を一から聴き直すことにしている。どれを聴いても、自分がなにか大事なものを見落としていたことに気がつく。不思議だ。長い間彼の音楽を聴いているはずなのに、どうしてこんな大切なことに気が付かなかったのだろう。

 例えばこの札幌公演の美しさを、私は知っていただろうか。否、見落としていたのだ。十年近く素通りしてきたものが、今突然、私の前に大きな意味を伴って現れたのだ。嵐の夜のようにそれは訪れ、知らぬ間に台風の真ん中にいた。かつてから傍にいて、しかも突然現れたものが、いつも私の心を奪っていく。


 人生はドラマではない。たとえドラマチックな印象を受けることがあろうとも、人生それ自体がドラマであることは有り得ない。傍から見た時に他人の人生がドラマチックに見えるのは、こちらがその人生の傍観者に過ぎないからだ。人生が物語に見えるのは、いつもそれを外から見た時のみである。

「なぜ小説家は、作中人物の振る舞いを説明し、理由付けしてやらなければならないと感じるのか?人生によって理由が与えられるのであって、人生に理由を与える必要はない」とは、まさにその通りである。『マルテの手記』には、人が物語を描くことの難しさに触れた箇所がある(「僕は人の物語るのを聞いたことがない……」)。その理由は二つある。一つは、大抵の物語がパロディであるからだ。人は物真似をして生きる。周知の通り、人の仕草は他からの影響によって成り立つ。我々の個性は、他人からの借り物である場合が多い。そして、既に自分を感化してくれるものがなくなった場合、人は過去の自分自身の物真似を始める(しかもかなり恣意的な物真似を)。時に人は、知っている物語に人生を寄せようとして演技し始める。しかし、全ての物事がドラマのように説明可能なわけではない。だから自ずとそこには無理が生じる。それがその人の描く物語を陳腐な、欺瞞に満ちたものに変えるわけだ。

 ここから二つ目の理由が帰結される。それは、人生が説明不可能なものであり続けるということだ。かつて人が物語を容易に描くとが出来たのは、説明可能な世界、有機的な世界、「すべてのものに意味や理由がある世界」の存在を信じることが出来たからだ。しかし、今や我々が直面するのは正反対の現実である。説明不可能なものが現前し、一つ一つが脈絡を持たず、繋がりを持たない世界、意味や理由が欠如した言動が繰り返される世界だ。たとえそこに意味や理由が与えられたとしても、それは解釈に過ぎない。そしてあらゆる解釈と同様、それは他の解釈によって覆される。「きっとこれはこうなんだろうな」という予想や期待が、今日まで何度裏切られ、覆されてきたことか。数え切れないほどだ。

 時折、自分の人生とドラマを同一視する人達がいる。正直、辟易せざるを得ない。「どんだけ自分が好きなんだよ」と思う。私自身、好きな小説や映画のキャラクターに自己投影しすぎてしまうことがあるから、気持ちはわかる。だからこれもある種の自己嫌悪なのかもしれない。しかし、自分の人生をドラマチックに演出して、都合の悪いことに目をつむるなら、いつまでも同じところに頭をぶつけて、過去と同じ馬鹿を繰り返して終わりではないか。それこそ陳腐な、滑稽な、ドラマにもならない人間の一生である。自戒も含めて、ここに書いておこうと思う。


 最近、『千のプラトー』を再び開く日々を送っている。その中で、思うことがある。それは『アンチ・オイディプス』を含め、<資本主義と分裂症> と名付けられた一連のドゥルーズ=ガタリの著作は、他のドゥルーズの著作に比べ浮いてるように見える、ということだ。それは彼のビブリオグラフィーを眺めていても考えることである。

 かつて宇野邦一氏に宛てた手紙の中で、ドゥルーズは以下のように振り返っている。「次第に一つの概念が独立の存在を獲得していったが、時として、私達はまったく違う仕方でその概念を理解し続けていた(例えば「器官なき身体」を、私達は決して同じように理解したことがない)」。この事から推定するに、『資本主義と分裂症』は最初から、少なく見積って二つ以上の意味をもって書かれている。また、同書簡には次のように書いてもある。「フェリックスからの衝撃によって、私は奇妙な概念達が住む未知の領土にやって来たという印象を持った。この本[『千のプラトー』]は私を幸福にし、私にとって汲めども尽きぬものになった。これはどんな自惚れもなしに、読者のためではなく、私自身のために書くことだ」。

 ドゥルーズを読み始めた当初から、私はドゥルーズ=ガタリの書く本に、もとい『資本主義と分裂症』の二冊に苦手意識を抱いていた。他のドゥルーズが書いた本で味わえる、難解であれど極めて美しい論理展開が楽しめないからだ (カフカ論はちょっと違う。あれもガタリとの共著だが、大部分はドゥルーズに由来するものだと直観的に考えている) 。再び『千のプラトー』を開いた感想は、以前とあまり変わらない。『アンチ・オイディプス』と同様、胸に響く箇所もあるのだが、他のドゥルーズの本より読んでて面白くない。正直本人もあんまり理解しないで書いるのではないか。野暮ではあるが、そんなことを考えてしまう(上の宇野邦一氏への手紙がそれを裏づけてるように思える)。翻訳で読んでるから悪いのだろうか。原文で読めば、もう少し印象も変わるのだろうか。皆『千のプラトー』を褒めるが、正直何が面白くてこれを読んでるのか。私にはわからない。

 勿論、これには個人の趣味もあるのだろう。しかし、ドゥルーズの目指した「ポップ哲学」、ある種の民衆的で科学的な哲学が、それを体現しようとした『資本主義と分裂症』では実現されず、むしろ彼がプロトタイプな文体で書いた哲学史研究/芸術批評の中で成功しているという印象を持つのは、果たして私だけだろうか。『経験論と主体性』や『プルーストシーニュ』の方が、遥かに読んでいて楽しいし、我々の実生活に身近である (それから、個人的に一番読んでいて面白かったのは『スピノザと表現の問題』と『シネマ2』であった。あの二冊は生涯読み続ける自信がある)。

 一方で、『資本主義と分裂症』の二冊を除けば、ドゥルーズ哲学を有機的に、合理的に語ることは可能になってしまう。マイノリティと非有機的な生に関心を持ったドゥルーズが、それを拒みたいと思ったのは容易に想像できる。そういう意味では、彼の目論見は成功しているのかもしれない。まさにあの二冊のおかげで、彼自身の哲学史は謎に包まれたのだ。

 それに、『資本主義と分裂症』のスキャンダラスな印象がなければ、ドゥルーズはここまで人気な哲学者にはならなかったろうし、私もドゥルーズの本を手に取ることがなかっただろう。