22/02/05

 日常の本質は、一切が何も起きなかったように生じる点にある。たとえ特異な出来事が起きたとしても、あたかも何事もなかったかのごとく日々は続く。それは小津安二郎の映画に似ている。妻が死に、家族がバラバラに引き裂かれ、娘が婚約しようとも、以前と同じように日は昇るのだ。

 記憶は呪いだ。こちらが重要視するしないに関わらず、忘却の淵から必ずよみがえる記憶が必ずある。死の淵からよみがえるラザロのように。それは差異と反復の原理でもある。異なったもの、経験不可能なもの、思考せざるを得ないものが、絶えず私のもとに帰還する。もしかすると、進歩が生まれるのはその時だけかもしれないのだ。


 他者とはひとつの可能世界である。他者の顔を覗き込む時、人はそこに別の世界線の自分を読み取る。もしあの時こうしていれば、もし環境が異なれば、もし時期が違えば、自分はこうなってたかもしれない、ああなってたかもしれない。今と違う自分を考え、悩み、苦しむのは、私が他者に出会った時である。

 嫉妬の原理はここにある。自分と同じ人間でありながら、自分にはないものを持つ者がそこにいる。私はそれに劣等感を覚え、あるいは焦燥に駆られる。ああ、何故あの時そうしなかったのか、何故自分にはあれがないのか、あの人は当たり前のように持ってるものが、何故手に届かないのか。そして、この苦しみを解消する最も手っ取り早い方法は、他人の存在を否定することだ。

 ある一定のタイプの人が、恋人が他に走るのではないかと不安を覚えるのは、他者の内に可能世界を読み取るからだ。自分が居座っている場所に、別の人が居座る可能性がある。何故自分が選ばれて、あの人が選ばれないのか。何故他に走らないのか。自分が信じている世界は、本当は存在しないのではないか。外部から納得の行く答えが与えられることは中々ない。だから束縛するしかないわけだ。そう、可能世界を、「自分が存在しない」世界線を排除するために。


"死は、内部から欲せられても、受動的で偶発的な別の形態をとって、常に外部からやってくる。"

 死には二つの側面がある。一つは避けがたい経験としての死、そしてもう一つは、決して経験しえないものとしての死だ。

 当たり前だが、誰もがいつかは死に至る。そういう意味では、我々は皆「死」を持つ存在だと言える。その一方で、人は決して死を経験することが出来ない。死ぬ瞬間には意識が既に失われている以上、死を経験することは不可能なのである。世の中には、自殺に成功した人間よりも、自殺に失敗した人間の方が遥かに多くいるに違いない。それはあたかも、死が避けがたいものでありながら、同時に操作できないもの、偶発的であって、常に外部に属するもの、経験不可能なものであることを教えてくれるようだ。

 若くして死ぬことに、多くの人はロマンチックな印象を抱く。それは死が老いと疲労の象徴だからだ。老いを知らず、美しいまま死を迎えること。それは逆説的な意味での生への執着である。大抵の場合、我々は老いて、醜くなりながら死んでいく。早死への憧れは、まさにそれを拒みたいがために生まれる。若者の自殺願望は、美しい生への憧れなのだ。

 しかし、そう簡単に人間は死ねない。イアン・カーティスカート・コバーンに憧れた若者が全員自殺しているなら、今頃全世界の人口は相当数減っているだろう。それに、上の議論を踏まえるならば、本当は誰も死ぬことなど望んでいないと言える。早死を望む人間は、決して自分の望む死に方以外の死を望まない。スーパースターの自殺と凡人の死では天と地ほどの差がある。交通事故に遭った時、どんなロマンチックな死に憧れる人でも「死にたくない」と願うに違いない。痛々しく、苦しい死。醜く、恥を晒しながら迎える死。しかし、大抵の人はそうやって死ぬ。だから人は死を恐れざるを得ない。

 死は本質的に偶然の産物であり、個人が制御することの難しいものである。よって、それは経験不可能な領野に属し続ける。「死」が現前することは、今日までの自分を乗り越えるものが目の前に現れるということだ。私の経験を打ち砕く何かが現前する。その時、私は緊張を覚え、追い詰められるように思考を始める。死の現前が生を突き動かすのだ。私は死を感じた時にこそ、何かをしようと思うことが可能になるのかもしれない。

 それは老いについて考えること、恥について考えることでもある。このまま老いていくことへの恐れ、恥を晒して生きることへの恐れは、そのまま死への恐怖を意味する。制御不可能な時間の流れと、それに伴い変化を強いられる自己を拒みたいならば、私は今現在において行動するか、あるいは死を選ぶかしかない。死は時間に属するものでもあるからだ。将来が常に自分の予測を超えるように、時間は私にとって経験不可能な領域であり続ける。丁度過去の出来事が、思い返す度に別の意味を伴うように、時間の内には常に現在では経験しえないものが含まれている。そして、あらゆる真実は時間の真実なのだ。純粋で空虚な時間の形式が、これまでの私の真実を偽に変える。時間の経過によって暴き出された真実が、今日までの私の知識を打ち砕くのである。


 別の意味では、死はとても楽観的な意味を帯びる。もし死後の世界が存在しないならば、あらゆるものは死ねば無機物にかえる。私がここで思い出すのは、『寄生獣』にある有名なシーンだ。「死んだ犬は犬じゃない、犬の形をした肉だ」と言って、主人公が犬の死骸をゴミ箱に捨てるのだ。しかし実際、彼は正しい。死が私の意識を取り除く以上、残された身体は別に私ではない。よく信じられているように、幽霊になって天や地をさ迷うこともない。人生が行き詰り、何をするにも飽きたとしても、死ねば全てが解決される。思考を巡らす頭脳もないのだから、死後のことに頭を悩ませる必要もないし、生前の思いわずらいに苦しめられることもない。たとえ葬式が開かれ、誰かが私の陰口を囁いても、私はそれを聞くこともないのである。残されるのは自分が他者に与えた記憶だけだ。

 要するに、困ったら死ねばいい。ありがたい話である。面倒なことから逃げる最上の手段が、今の私には残されている。かと言って、自分は結構生に執着のある人間だから、余程のことがない限り自殺はしないだろうが。


 若さとは永遠の命である。若者は死を知らない。今の自分達がいつまでも、永遠に続くのだと思っている。若き日の本質は、その終わりが訪れることを知らない点にある。あるいは、その終わりを信じることが出来ない点にある。そう言い換えていいかもしれない。

 我々は延長されたモラトリアムを生きている。この場合、「我々」とは、(私を含む) 周囲の一部の人間のことを指す。個人的な話になるが、私はいくつかの異なったグループに属しながら生活をしている。しかし、その内の一つはとりわけ特殊である。皆、特に共通点があるわけでもなければ、誰に集められたわけでもない。けれども非常に仲がいいのだ。一週間の内に何度も顔を合わせるかと思えば、二、三ヶ月くらい (あるいは半年、一年くらい) 会わないこともある。陳腐な言い方をすれば、変わり者の集まりだと言えよう。ただ一つ確かなことがあるとすれば、それは、私が自分の友人たちを愛し、尊敬しているということだ。きっと友人たちもまた、私を愛し、尊敬しているだろう。あるいは、そう信じていると言い換えていいかもしれない。

 私はそのグループの (あるいはその界隈の) 主要メンバーなわけではない。むしろ脇役のひとりだと語るのが正しい。色んな人間がいる。大学生、大学を中退した人間、高校を中退した人間、そもそも高校に行かなかった人間、あるいは現役で高校生の者、もしくは既に三十前後の者。薬の話題はよく挙がる。草に紙、あるいはバツ。退廃的に見えるかもしれないが、だからと言ってヤンキーではない。ヤクザや半グレに比べれば遥かに陰気で、良く言えば文化的、悪く言えばナードの集まりだ。一方で、暴れ回る者も確かにいる。路上で大声を出すこともあれば、物に当たり、壊したりすることもある。しかし、世の中には、そうすることによってし生きた心地を得られない人間が一定数いるのだ。私自身がそうあるわけではないのだが、その手の人々の気持ちはある程度わかっているつもりだ。

 要するに、我々は社会の除け者、落ちこぼれ、一般に言う「社会不適合者」の集まりだと言っていいのかもしれない。しかし皆、文化的素養を持つ人間に特有のプライドがある。オタクというにはあまりにも破天荒で、ヤンキーというにはあまりにも小心者。それが我々のグループの特徴かもしれない。

(これは私個人の感覚かもしれないが、時には自分の「アウトロー」な生き様に惚れ惚れすることもあるが、その一方で、自らのどうしようもなさに嫌気が指すことも少なくない。他はどうか知らないが、私自身はこの二極の間を常に行き来していると言っていい。自分が他者に与えるに違いない魅力的な印象、今日までの不幸を乗り越えてきたタフネスへの信頼、自分の容姿、才能に対する自惚れ、過度な自信による自己陶酔。または将来に対する不安、他人にできることがまともにできないという事実、それに覚える劣等感、自尊心と虚栄心が強いことから来る自己嫌悪、自らのしょうもなさに感じる恥、「一般」を生きられないことへの罪悪感。)

ニーチェの内では、至福感と抑うつ状態が交替交替に現れるのだが、その間隔が益々短くなり、目まぐるしくなってくる。ある時には一切が優秀この上ないと思える。彼の仕立て屋も、彼が食べるものも、人々が迎えてくれるさまも、店屋のなかに入るとき自分が周囲に及ぼすに違いないと思う魅力も、そのすべてがである。またあるときには絶望感が優位を占める。読者がいないこと、死の印象、背信の印象。"

 私の周りの多くは、所謂「大学生」の存在を嫌悪している (恐らく軽薄に騒ぐということで)。一方で、我々の本質は皆が嫌う一般的な「大学生」とそう大差ない。違いと言えば、彼らのモラトリアムが大学卒業と同時に終わるということだ。一方で、我々の大半は大学卒業後もまともな生活をしていないか、あるいは既に大学を辞めているか、もしくはそもそも大学に行ってないかのどれかである。その中には就職している人間もいれば、いつまでも落ち着きなくあたりをさ迷ってる者もいる。

 やはり、我々には「延長されたモラトリアム」という表現が相応しい。諦めるには若すぎるが、やり直すには遅すぎる。延長されたモラトリアムは、我々の人生にそのような代償をもたらした。

 勿論、いつまでもこんな生活が続くわけがない。私の予想では、あと二年の間に、周囲で何か決定的な変化が起こる気がしている。その後も付き合いの続く友人もいるだろう。もしかすると十年、二十年、あるいは一生涯の友情を持つ者もいるかもしれない。しかし、いつかは皆はなればなれになるのだろう。

 それまでの執行猶予はまだある。その間、私はできる限り友人を大事にするつもりだ。しかし、三十を迎える頃には、この美しくも危うい友人たち、そして我らの過ぎた時代の回顧録として、一つの小説を書きたいと思っている。しかし、その予定を立てるには、まだあまりにも早すぎるだろう。

 

 顔とは言葉を持たぬ言語である。相手の顔つきが、時に言葉以上のものを想像させることがある。コミュニケーションの本質は、相手の声を聞くことよりも、相手の沈黙を聞くこと、表情を読むことにある。

 しかし、顔の読解はあくまでも推測の域を出ない。表情とは答えを持たぬ暗号なのだ。時に我々は、相手の表情に含まれているかもしれない真意に悩むことになり、またはそこに存在しないかもしれない感情のために悩むこととなる。言葉が語らないことを、表情が語っているように見える。しかし真実を確かめるには、二者の間で暗黙の了解とされていたものを打ち壊すより他ない。我々を惑わし、あるいな我々の目を覚まさせるのは、誰かの言動よりも、言動を彩る相手の表情、相手の口調である。

  チャップリンが『街の灯』で描いた有名なラストシーンが、そのいい例になるかもしれない。花屋で働く女性は、かつて盲目だった。しかし、名前も知らぬ紳士のおかげで目が見えるようになった。少女は自分を助けてくれた紳士に思いを馳せる。手術費を払い、名乗りもせずに去っていったあの人は、一体誰なのだろう。甘美な妄想を繰り返す彼女。若くて美しい男性が現れれば、きっと彼が「あの人」なのではないかと思ったりする。

 やがてついに自分の恩人に会うこととなる。しかし、はじめは相手が「あの人」であるとは気づかない。背の低い、みすぼらしい格好をした中年男性がそこはにいたから。しかし、彼の手を触った瞬間、その手触りで理解する。目の前にいるホームレスが自分の恩人であるということを。

 この際に女優が見せる演技が素晴らしい。嬉しそうな顔をするのではなく、むしろ悲しそうな顔をするのだ。それは失望の表情と言い換えていいかもしれない。自分が空想した白馬の王子様など存在せず、ただ惨めな格好をした小男がいるに過ぎないのだ。しかし次の瞬間には、女性はほのかに笑う。今度は自分の恩人に会えたことへの喜びの表情だ。目元は涙を浮かべている。それは喜びなのか、悲しみなのか、最早わからない。

 あらゆる真実に固有の残酷さ、そして喜びと悲しみの交差する無言の表情の描き方が、この映画を永遠のものにしているのかもしれない。