22/02/10

 夢には犠牲が付き物である。しかしその際、夢の犠牲になるのは自分ではなく、むしろ他人である。 夢見ることを求めて、人は自分と同じ夢を見ない誰かを求める。ヴィンセント・ミネリについて論じる時、ドゥルーズは次のように語ったことがある。

"夢についてのミネリの偉大なアイディアは、夢とは何よりも先ず夢を見ていない人に関わるというものです。(…… ) 私達ひとりひとりは、多かれ少なかれ他人の夢の犠牲になっています。この上なく可愛らしい若い女性ですら恐ろしい貪欲女なのであり、ただし、それは彼女の心によってではなく、彼女の夢によってそうなのです。皆さんも他人の夢には用心してください。他人の夢に捕まると、とんでもないことになりますから。"


"何が起きたのか?──「無論、人生は崩壊の過程である」と断じてから、晩年のフィッツジェラルドが思案し続けた問いがこれである。だが、この「無論」を、どのように理解したらいいのだろう。先ず言えるのは、人生は次第に硬さを増し、干からびていく切片性に取り込まれるということだ。"

 ドゥルーズフィッツジェラルドの話をする時、彼はほとんど決まって『崩壊』という短編の話をする。「無論、人生とは崩壊の過程である」という衝撃的な言葉から始まるこの本を、彼は終生愛したらしい。ドゥルーズ自身の言葉を借りるならば、それはまさに「ハンマーの音が響く」ような言葉である。初期の著作『意味の論理学』から、亡き友フランソワ・シャトレに捧げた晩年の『ペリクレスヴェルディ』に至るまで、ドゥルーズは何度もこの言葉を引用した。あたかもそれが自分自身の言葉であるかのように。

 しかし何故、人生は崩壊の過程なのか?一つだけ確かなことが言えるとすれば、それは決して「人生は次第に不幸になる過程だ」ということではない、ということだ。自由な人間として生きるならば、人は遅かれ早かれこの「崩壊の過程」にたどり着かざるを得ない。本来、我々が生きる環境とは与えられたものである。人は受動的な存在として、自由を持たないものとして生まれる。そして日常において語られない暗黙の了解こそ、我々の行動を制約する偏見に満たされているのだ。自由な人間、解放された人間として生きるならば、人は自らの「暗黙の了解」を打ち砕かなければならない。その時、人生は「崩壊の過程」となる。ドゥルーズが、あるいはフィッツジェラルドが言いたかったことは、恐らくそれなのではないか。

 以下、『千のプラトー』の第八プラトーを下敷きにした議論を進める。ドゥルーズ=ガタリはその中で、フィッツジェラルドについての議論に多くを割いているからだ。ただし、これらの議論が的を得ているのかどうか、それは正直分からない。

 老いるにつれて、人は硬さを増していく。ある程度物事の「たかが知れる」からこそ、我々の思考と行動のパターンは凝り固まっていくわけだ。頭脳の中ではバラバラな断片が漂い、何かある度にその間を移動する。それで大体の場合は事足りる。「ああいう場合はこうして、こういう場合はそうしよう」といったふうに。しかし老いるにつれて、人は喪失を体験していく。「外からやってくる、あるいは外からやってくるように見える不意の大打撃」を食らう。何かが、知らぬ間に切断されたのを感じる。しかし、気づいた時にはもう手遅れである。そこには大きな亀裂が生じているのだ。

 それとは別の崩壊がある。しかも、それは若い頃から、物事が今よりもマシだった頃から、既に始まっていたのである。「皆が幸福であるためのすべてを持っている。美しく、魅力的で、裕福、軽薄、才気に満ちていると言われる。次いで、何ものかが通り過ぎて、皆が、まさに皿やグラスのように割れていく」。恐らく気づかなかっただけで、私の崩壊の過程は若く美しい日々から既に始まっていたのではないか。だからこそ、こう問わずにはいられないのではないか。「何が起きたのか?」と。そこに見えるはミクロな亀裂、ひび割れた皿のごとき亀裂だ。

 上の二つの線が出会い、衝突し、破裂する時、更なる断絶となる、第三の線が登場する。ある意味では、それは「旅」とも言えるかもしれない。しかし、それは決して失われたものへのノスタルジーを誘うものでもなければ、まだ見ぬ自分を探し求めるものでもない。それはもはや帰るべき場所を持たない旅、静止した旅、思索の旅だ。「完全な断絶とは、二度と帰れないものを意味している。もはや過去が存在しないのだから、断絶はなおさら取り返しのつかぬものとなる」。私にはもはや帰る過去がない。しかし、だからこそ描くものの可能になったものがある。

 この時、ドゥルーズ=ガタリは「逃走線」という概念を用いて語る。この際、注意すべきなのは、「逃走」とは決して今ある世界から逃れることではない、ということだ。むしろ我々は、今あるこの世界を逃がさなければならない。帰るべき過去を持たない時、私はまさにかつての自分を縛っていた偏見から逃れられたと言える。今はかつてのような前提を抜きにして、より明確に物事を語ることが出来る。今ならば、世界をかつてとは別の見方で捉えることが可能である。悲観すべき世界、逃れたくなる世界を破裂させ、新しい世界の捉え方、よりよい世界の捉え方が可能になる時が来る。私が世界から逃走するのではなく、むしろ私が世界を逃走させるのである。

 今ならかつて気づかなかったことにも気づくことが出来る。かつて知覚しえなかったものに、自ら近づいたのだ。しかし、ならば何故『崩壊』を描くフィッツジェラルドの口調にあれほどの絶望が含まれているのか。ドゥルーズ=ガタリはシェストフがチェーホフを論じた際の文章を引用する。「彼は努力した。この点に関しては疑いの余地がない。そして彼の中で何かが壊れてしまった。なんらかの労苦が原因で努力したのではない。自らの力を超えた偉業に着手する前に、彼は打ちのめさせて倒れたのである」。

 文学の目的は、言語化不可能なものを言語化可能にする点にある。読書とは、語るべき言葉を知らぬ者が自らの言葉を見つける作業である。しかし、多くの天才的な作家が、陰鬱で破滅的な最期を迎えたということは、ドゥルーズ自身度々認めていることだ。それでも彼は、文学の本質は喜びであるということを信じて疑わなかった。書くという行為には生を解放する、病から生を解き放つ使命がある。もし悲惨な最期が待っていたとしても、それは喜びを求めた末に得られたものだ。

"実際、芸術の根底にあるのはある種の喜びであり、芸術の目標とはまさにこれなのです。必然的に創造の喜びというものがある以上、悲劇的な作品などというものはないのです。つまり芸術とは、是が非でも全てを炸裂させる解放であって、それは先ず悲劇的なものを炸裂させるのです。"

 だからこそ、ドゥルーズ=ガタリは一度引用したシェストフの言葉さえ留保する。「いや、チェーホフは本当に倒れたのだろうか。それは単に外面的な判断に過ぎないのではないか……」人生は短いが芸術は長い。それは古くから伝わる教えだ。作者が悲劇的な死を迎えるからと言って、作品が悲劇的であるわけではない。そして、天才とは別の天才に対する呼び掛けなのである。

フィッツジェラルドは次のように書いている。「僕達の友人、親類縁者の半数は、ゼルダが発狂したのは僕の飲酒癖のせいだと信じて疑わないだろう。残りの半分は、僕を酒に走らせたのはゼルダの狂気だと断言するだろう。どちらの判断にも大した意味はない。友人と親類縁者は二通りのグループに分かれるとはいえ、お互い相手が居なければずっと健康でいられるはずだと主張する点では、皆似たり寄ったりだ。おまけに、互いにこれほど相手が恋しく思えたことは人生でかつてなかったとは、なんとも皮肉ではないか。彼女は僕の唇に残ったアルコールの味を愛している。僕は常軌を逸した彼女の幻影を愛おしく思っている。」「最後には、何一つ重要ではなくなった。僕達は自滅したのだ。だが正直なところ、僕達が互いに滅ぼし合ったと思ったことは一度もない。」美しい文章だ。ここにはすべての線が出揃っている。"

"覚醒と眠り、生と死などは、どちらか一方の力が他方の力よりも優勢を占めているさまを表しているだけである。眩いばかりの生命の光は、実は死の深い暗闇と同じ源から発している。"