22/02/15

 時間の残酷さは、一切を「未だ早すぎる」と「もはや遅すぎる」の二つに引き裂いてしまう点にある。今日までのことを思い起こすと、自分がいつも遅れて気づいていたことを知る。もっと早く気づいていたなら、結果は違うものになっていたかもしれないのに。しかし、真実は遅れてやってくるものである。そしてこの「遅すぎる」ということが、私の世界を覆していく。

『巴里の女性』という映画がある。結婚を目前にした男女は、親の反対を押し切ってパリで結婚しようとする。しかし、その直前に男の父親が死に、彼はパリに行けなくなる。女はそれを知らずにひとりパリに向かい、生活していくために金持ちの愛人となる。一年後、彼女は偶然、パリで男と再会する。男は女の変わった身なりに驚く。そして女は、男が自分と駆け落ちできなかった理由を知る。彼女は顔色を変える。もっと早くそれを知っていれば、自分はこうならなかったかもしれないのに。しかし、気がつくにはあまりにも遅すぎるのである。

 よく、人生の答えとか、幸福の形とかを求めて哲学に関心を持つ人がいる。正直に言って、馬鹿げていると思う。チャップリンの言葉を借りるならば、「人生に意味などなく、あるのは願望(desire)だけだ」。幸福になりたいなら、哲学は間違いなく必要ない。私を見てほしい。果たして幸福に見えるだろうか。なるほど、それなりに楽しく生きているが、ぶっちゃけ「自分は幸福だ」と胸を張って言える自信はない。

「債権に追われ/友を裏切り/責任を逃れ/部屋も暗い日々/取り残された正義の味方/風呂敷マント/涙拭きママを待つ夕方」という鬼の美しい歌詞が頭に浮かぶ。この歌詞の通りの人間ではないにせよ、自分は結構近い所にいると思う。檜垣立哉氏はTwitterで「学生は死ぬほど本を読むといい、(就職するにせよ研究者になるにせよ) 学生の時期が終われば死ぬほど本が読めなくなるから」と言っていたが、それは正しい。社会で生きようと思えば、好き勝手に本を読むことが難しくなる。もし好き勝手に読書しながら社会を生きようと思えば、私のようなろくでなしが誕生する。

 歳を重ねるにつれて人は思慮深くなると、一般に考えられている。なるほど、それは事実かもしれない。しかし皮肉なもので、私の場合、思慮深くなるにつれて、他人の気持ちが理解できなくなってしまった。否、客観的に、事実として理解することはできるが、共感が出来ないのである。誰かが私に魅力を感じてくれたとしても、他人事のように把握することは出来るが、主観的にそれを理解することが出来ない。だから他人の気持ちを、心のどこかで本気に捉えることが出来なくなる。

 傍から見れば、冷たく、他人に無関心な者に見えることもあるかもしれない。しかし、自分としてはそんなつもりは更々なく、ただ理解が出来ないから目を背けているだけなのである。自分で言うのもなんだが、思慮深さは十分備えているつもりである。なのに、何故こんな簡単なことに気が付かないのかと、思い返して自分で呆れることが多い。

 ゴッホがあれほどまでに絵画に固執していたのは、自らの絵を描くという能力の行使に喜びを覚えていたからだ。能力を行使することには、それでしか味わえない固有の喜びがある。ピアノを好き勝手に弾く時、私は自由を感じる。何ものにも縛られず、他では味わえない喜びがそこにあるからだ。本を読むことも同じだ。読書することで、私の感受する能力が行使される。そのために喜びを覚える。新しい発見によって、これまで思考不可能だったものが思考可能になる。しかし、何かに没頭するほど、他なら容易にわかるはずのことがわからなくなる。だから没頭するとは生きづらくなることと同義である。

 知らぬ間に、自分が気づきたいものに益々気づけなくなっていることに気がついた。見出されるのは、日に日に他者との生活に生きづらさを見出している己の姿である。自分が特別だと言いたいわけではない。ただ、私は皆と同じ世界で生きたいのに、どういうわけがそれが出来ないのである。

 文章を書くことには演じる作用がある。誰かに読まれることを想定して書く以上、誰しもある程度言葉を選んで語ることを強いられる。そういう意味では、一番誠実な作家とは、読み手を持たない作家、読者を無視する作家である。私のブログはパフォーマンスだ。特に今日のように、読み手のことを意識しながら自分の心情を語るなど、パフォーマンス以外の何ものでもない。しかし、それでいいのかもしれない。ふとそう思った。『ディアローグ』の中で、「人は愛によってしか書かない。あらゆるエクリチュール[書き言葉]は愛の手紙である」と言葉があったが、それは正しいのかもしれない。今日まで私の書いた文章は、どれも愛の手紙である。

 またそれっぽい言葉を書いてしまったが、今の自分がそれに相応しいのかはわからない。