22/02/20

"身体すらも、もはや厳密には動くもの──運動の主体であり行動の道具──ではなく、むしろ時間を〈啓司するもの〉[revelareur]となるのであり、その疲労と待機によって時間を証言するものとなる"

 知性は遅れてやってくる。身体は時間の真実を啓示する媒体である。我々が目にすることのできなかった真実、あるいは我々が目を逸らしてきた真実が、時間の経過によって、直に身体に書き込まれることとなる。まさに「身をもって知る」という表現がふさわしい状態だ。これまで見落としてきたこと、欠けていたピースが見つかるのを、直観的に、肉体的な感覚をもって知る。その時、こちらの思考する能力と、感覚する能力が、苦痛の中で一致することとなる。それは「不協和の一致」とも呼ぶべきものだ。

"理性と構想力は、緊張、矛盾、苦痛を伴う分裂の真っ只中でしか一致しない。一致が、しかし不協和の一致[accord discordant]が、つまり苦痛の中での調和が存在するのだ。そして、こうした苦痛だけが快を可能にする。カントは、構想力が暴力を受け、その自由を失うことさえあるという点を強調している。"

 時間の蝶番が外れている。シェイクスピアの『ハムレット』におさめられた有名なセリフである。ハムレットは時計の針が狂っているのを、時間の蝶番が外れているのを感じる。それは、彼が直面する過去の真実によって、自分の生きる世界が引き裂かれるのを感じるからだ。自分が認知していた世界と、それを崩壊させる真実の出現が、ハムレット自身を二つに引き裂く。まさに彼は「時間の蝶番が外れている」のを身を持って知るのである。

 よって時間の真実とは、何か暴力的なまでにこちらに迫り来るもののことでもある。その時、理解できないものが、それでいて思考することしかできないものが、私の前に現れる。私は、あたかもそれに追い詰められるようにして思考することとなる。この点について、ドゥルーズプルースト論が極めてわかりやすく書いてくれているのだが、今わけあってそれが手元にない。しかし、かつて抜粋しておいたメモの中に、非常に印象的な言葉が残されていたので、それをここにも書き写しておこうと思う。

"罰を受ける前には、私達は法が何を欲していたかわからず、したがって有罪であることによってしか法に従うことが出来ず、私達の有罪性によってしか法に答えることが出来ない。(……)厳密に言うなら不可知であり、法は私達の処刑される身体に最も過酷な制裁を科す時にだけ、認知されるのである。"

 人は罰されることによってしか、法の存在を認知することが出来ない。私は罰を受けることによってしか法にこたえることが出来ないのである。ならば、法に従属すれば罰を回避することが出来るのだろうか。否、むしろ法に従うほど、罰に従順になるほど、人は益々自分を罪深いものだと思うようになる。しかし裁きと直面すれば、それだけ一層私は時間の残酷さに立ち会うこととなるだろう。

 発見されたばかりの真実というものは、産まれたての赤ん坊のように醜く見えるものである。蝶番の外れた時間が表れたとき、時計の針が狂ったとき、私は見落としていた真実が啓示されるのを知る。そして、時間の残酷さを思い知ることとなる。それは同時に、自分の無知さ、愚かさを恥じることでもある。

 このように、思考はその不能性に直面した時しか発達することがない。これはドゥルーズが(『差異と反復』をはじめとして) 度々取り上げる問題である。私と世界の間には認識のズレがある。私が「他人の気持ちを考えるのが苦手だ」と語る時、正確に言えば、そこには誤りが存在する。他人の気持ちを理解することが出来るが、それにどう対処すればいいかがわからない。しかしそこまで語るのは、何だか自分が情けない気がする。よって、「他人の気持ちがわからない」の言葉で片付ける。本当は理解しているのかもしれないが、どうすればいいかわからないので、理解できない状態におし留めようとするのである。これを理解することが出来たのも、私が「思考できない」という現実に直面したおかげである。

 よく考えることがある。他の人だったら、自分の直面する様々な問題をもっと上手く処置することができるのだろう、と。もとい、そうだからこそ、ある一定のイメージを他人から当てはめられることがある。しかし、実情を覗けば、その「一定のイメージ」に当てはまらないことがよくわかる。表面だけは立派だが、それに中身が伴っていないのである。だからこうしてくよくよ悩む時間が増えるわけだ。私は他人に見えるものが見えない。そして恐らく、他人に見えないものが見えるのである。

 どうすれば引き裂かれた私と世界との間の絆を取り戻すことが出来るのか。ドゥルーズによれば、それは「信仰においてしか取り戻すことの出来ないもの」である。しかしこの場合、「信仰」とは決して宗教的なものではない。むしろそれは、この世界それ自体への信仰、あるいは信頼を意味する。 「問題は、言葉の手前で、あるいは彼方で、世界への信頼を再発見すること、取り戻すことである。」

 ならば、いかにして信仰を獲得すればいいのか。いかにすれば、引き裂かれた信頼、失われた信仰を取り戻すことができるのか。それは身体を持つこと、脳を持つことによって可能になると書かれている。だがしかし、この問題は今はまだ上手く理解出来ていない。だから続きはそのうち書こうと思う。