21/02/25

 人は死に憧れる。死とは退廃、不幸、悲しみの象徴である。世の中には退廃的なもの、不幸なものに恋焦がれる人間が一定数いる。確かに不幸は人を特別にするが、理由は決してそれだけではない。不幸なもの、退廃的なものには、それ固有の優しさとも言うべきものがある。誰も一人で不幸になることは望まない。人が不幸を望むのは、誰かと共に不幸になりたいからである。実際、退廃的なものには弱き者を受け入れてくれるような感じを与えることがある。

「死と同様に、生もまた避けがたいものである」。それは『ライムライト』で老いた喜劇役者が放つセリフだ。「問題は君が戦おうとしないことだ。君は病気と死ぬことばかり考えて、それに屈している……」

 しかし、彼は一体誰にそれを語っているのか。老いた俳優の前にいるのは、泣き疲れた若いバレリーナである。ベッドから身を起こせど、そこから動けず、 じっとすることしか出来ない。精神的なショックのために、彼女の脚は動かなくなってしまったのである。

 しかし、彼女を励ますこの老人も、同様に自らの不幸に打ちひしがれていた。かつて、彼は喜劇役者として名声を博していた。しかし酒と性に溺れ、物事に対して悲観的になり、もはや誰も彼の演技に喜ばなくなってしまった。名誉は消え失せ、見向きもされず、日に日に老いていく身体だけが残される。もう死ぬことより他に将来が残されていないかのようだ。

 だからこそ、この男カルヴェロが生の偉大さを、死に立ち向かうことの重要さを説く時、彼は目の前の女性テレーザに対してのみそれを語っているのではない。彼は自分に対してもそれを説いているのである。人としてのみならず、俳優としても死につつある。道化を演じても、誰も笑ってくれない。世間に取り残された、孤独な老人と化した自らをも奮い立たせるように、男性は叫び出すのだ。「生命、生命、生命……」

 彼らの出会いは特殊であった。カルヴェロは偶然にも彼女が死のうとしているところに立ち会い、死の淵から彼女を救ったのである。昏睡から起き上がった女性は「何故死なせてくれなかったのか」と語る。彼女は若く、才能に溢れている。しかし死への強迫的な願望に取りつかれている。彼女を慰める男性は、年老いて、才能も枯渇している。しかし今なお生に固執している。死に取り憑かれた女性と、生に取り憑かれ男性。ここにあるのは実に対照的な関係である。

 金銭的な余裕もなかったため、暫くテレーザはカルヴェロの家で暮らすこととなる。借りていた部屋も追い出されてしまったから。ある日、彼が久しぶりの舞台から帰ってくる。そして、その時の様子を彼女に語る。しかし、それはあまりにも悲惨なものだった。道化を演じても、誰も笑ってくれない。観客達は早々に席を立ち出ていった。劇場との契約も一日で打ち切られる。今までにない仕打ちに、男性は静かに絶望していた。そして彼女にそれを打ち明ける最中に、ついに泣き崩れるのである。「自分はもう終わりだ……」

 その瞬間、女性が立ち上がる。そしてかつて彼が励ましたように、今度は彼女が励ますのである。我を忘れていたテレーザは、やがて自分が立ち上がり、歩けるようになっていることに気がつき、驚く。彼女は男性の弱さを鼓舞するために、再び立ち上がる力を獲得したのである。

 異性愛の本質はルサンチマンにある。我々が惹かれるのは、自分が共感できる弱さを持った相手である。恋愛感情が時に同情と混合されやすい理由がそこにある。しかし、共感の作用とは不思議なもので、人は自分の弱さが美化された時にしか、相手に惹かれないものである。テレーザがカルヴェロによって奮い立たされたのは、何も彼が彼女を支えていたからではない。自分を励ます男性が、自分と同じかそれ以上の弱さを抱えていることに気がついたからである。テレーザは今、精神的な苦痛を克服し、再び踊ることが可能になった。彼女はバレリーナとして返り咲くことになるだろう。

 しかし、ここにあるのは実に奇妙な構図だ。女性が弱っている時、男性は果敢に振る舞い、そして男性が弱っている時、女性は果敢に振る舞う。あたかもお互いがお互いの弱さを餌食にして生きているかのようだ。事実それ以降、彼らの立場は逆転する。女性は「自分がバレリーナとして養う」といって働き出す。男性は酒に溺れ、体たらくな日々を送り、彼女に世話を焼いてもらう。それまで彼が彼女を介護する側だったのに、今では彼女が彼を介護する側になっている。

 やがてテレーザは大きな舞台の主演を務めることが決まる。男性も同じ劇場に雇われるが、しかし報酬は安く、ほとんど情で雇われていると言ってよかった。祝福されたムードのなか、彼だけが一人取り残される。自分は場違いであり、辺りは暗く、もはや何も見えないように思えてならない。

 しかしその時、彼女がカルヴェロに近寄り、結婚を申し込むのである。彼はそれを真にうけない。自分のような老人ではなく、むしろ若く、才能に溢れた作曲家と結婚した方がいいという。そう、今度の舞台で作曲を担当する青年は、なんと以前彼女と知り合いだったのである。まだ作曲家が売れなかった頃、彼女は若者に恋をしていたのだ (しかし彼女自身は、それが恋愛感情よりも同情に近かったと振り返っている)。

 こうして再び、我々はあの不可思議な対照に立ち会うこととなる。死を目前にした彼が惹かれるのは生であり、そして生の只中にいる彼女が惹かれるのは死である。彼は生のために彼女を愛し、彼女はむしろ死のために彼を愛する。しかし彼は、まさに生を愛するからこそ、自らと結婚することをすすめない。自分がまもなく死ぬことを理解しているからである。

 幸福は繰り返されることを求める。しかし、時間は直線的なものである以上、人は時間の経過とともに変化せざるを得ない。「幸福な日々」が永遠に繰り返されることを求めれば、そこにあるのは停滞であり、あるいは死である。これはクンデラが示した「人間が幸福になれない理由」でもある。幸福を求めるならば、人は停滞するしか、あるいは死の永遠に飛び込むしかない。

『ライムライト』において、女性が男性に惹かれるのは、彼女がまさに死に惹かれるからである。時を止めることが出来る以上、死はある意味では幸福の象徴でもある。事実、彼女がカルヴェロに出会う前、若い作曲家に惹かれた理由は、彼の容姿が美しく、才能に溢れていただけではなく、そんな未来ある若者が今まさに貧困のために死にそうになっているからである。それと同様に、彼女がカルヴェロに惹かれた理由は、かつて富と名声を勝ち得た天才が、自分を励ましながらも弱々しく、死を目前にしているからである。

 これらの事から、次のように語ることが可能である。つまり、幸福を求めることと生を求めることは異なっているということだ。どんな場合であれ、今ある幸福は必ず失われる運命にある。しかも、時にはこちらから幸福のもとを立ち去ることさえあるのだ。人間はどんな刺激にも慣れてしまうから、やがてはどんな幸福にも飽きてしまう。これは時間に固有の残酷さでもある。

 ここで思い出されるのは、ドストエフスキーが『白痴』に書き残したセリフである。彼はナスターシャというキャラクターについて、こう語らせている。「あの女は飛び切り上等な花婿なんかには目もくれないで、かえって屋根裏で餓死する為に、どこかの大学生と喜んで家を飛び出す人なのよ……」幸福は一つの時間のうちに留まることを求める。しかし時を止めたいならば、人には停滞か死か、その二つの選択肢しかない。よって、幸福になる最も手っ取り早い手段は、誰かと共に不幸になることである。これは逆説的なように見えて、世の多く人々が実行している手段なのかもしれない。

 結局、映画は(監督脚本を務めたチャップリンが演じる)カルヴェロの目論通りに進んでいく。最期の舞台で、彼はすべての客を喜ばせるほどの芸を披露するが、そのために身体を痛めてしまう。苦痛は老いた彼を死に至らせることになるだろう。次の出番がおとずれる。若きバレリーナ、悲劇から復活した女性が舞台に立ち、美しい姿で踊りを披露する。彼は舞台袖でそれを見守ろうとするが、死の微睡みは彼を掴んで離さない。まさに映画の冒頭で示された通り、"age must pass as youth enters(老いは立ち去り、若さが入場する)"のである。