22/03/02

「倫理的な問い」、そう呼ぶべきものが世には多く存在する。しかし何故、倫理が問われるのか。もとい、誰が倫理を必要とするのか。疑う余地なき倫理観を持っているならば、そもそも倫理についての問題を提起する必要などない。よって、倫理を必要とする人間とは、倫理を持たない者、生きる過程で倫理を喪失した人間を指す。

"……そこから、たいへん重要な結論が出てくる。すなわち、思考の働きが信念〔信じ込むこと〕である場合、思考がなすべきことは、誤謬から身を守ることであるというより、むしろ錯覚から身を守ることである、という結論である。不当な信念は、恐らくは免れえない錯覚の雲として、思考を取り巻いている。この点で、ヒュームはカントの先駆けである。そして、正当な信念に伴う錯覚から当の正当な信念を解放するための大いなる技術が必要になり、ありとあらゆる規則が必要になるだろう。"

 忘却とは癒しである。それはニーチェが『悦ばしき知恵』の冒頭で書き残した言葉だ。一方で、ニーチェは次のようにも指摘している。つまり、傷が癒されたからと言って、人は以前よりもたくましくなるわけではないということだ。むしろ傷が癒されるほど、人は益々傷つくことを恐れるようになる。あたかも忘却の淵から傷跡がよみがえるのを恐れるかのように。意識的であれ無意識的であれ、癒えた人は傷を想起させるものを遠ざけるものだ。

 いかにすれば傷跡を乗り越えることが出来るのか?過去のトラウマを繰り返し思い出すことが最上の手段ではないことは明らかだろう。エミネムがそのいい例だ。楽曲の中で、彼は母親との因縁を幾度となく取り上げたが、それによって過去のトラウマを克服するというよりか 、むしろ過去の因縁を何度も繰り返すことになった。実の母親から訴えられたのである。同じ問題を執拗に蒸し返すことは、自らすすんで出口の無い迷路に入り込むことに等しい。過去の不幸を好んで語る人間には特有のナルシズムがある。

 一方で、このような問いを発するのは、長い間、自分が一つの避けがたい問題に直面せざるを得ないからである。出来るはずのことが、何故かわからないが出来ない。あたかもそこには見えない壁があって、そのせいで一歩も進めないようだ。他人なら容易なのかもしれないのに、まさに自分であるがために、それが不可能になってしまう。奇妙だ。自分の持ってる能力が、自分から切り離されている。活動力が現実から切り離され、今いる場所から一歩も動くことが出来ない。そして、自分の夢見る大地はあまりにも遠いのである。

 ボブ・マーリーの歌詞が頭に浮かぶ。"This morning I woke up in a curfew;/O God, I was a prisoner, too./Could not recognize the faces standing over me;/They were all dressed in uniforms of brutality./How many rivers do we have to cross,/Before we can talk to the boss?/All that we got, it seems we have lost;/We must have really paid the cost."

 陳腐で三流な映画の主人公のように、過去のトラウマのせいで現実に積極的になれず、いつまでも自分の頭の中にこもっている。それが傍から見た私の姿だとしたら、実に惨めで仕方ない。まるで弱く、傷つきやすい人間であるかのようだ。私は幸福を夢見る。充溢した生命を、力強く、美しい、自由な人間であることを望む。しかし、鏡に映るのはまるでその反対だ。能動的になろうとすれば、それだけ自分が見えない鎖に取り巻かれ、そのために動けず苦しんでいることを知る。

 まあ、もういい歳なんだから、いつまでもナイーヴな青年のフリなんてしたくないのだが、またしてもこんな事を書いてしまった。実際、自分が繊細な人間だとは微塵も思わない。そんなフリをする資格もないだろう。もういい加減、不幸そうな顔をして生きるのをやめて、健康な人間として、胸を張って生きたい。ならば、何が私からそれを妨げているのか。事実、何かが私を生から切り離そうとしている。どうすれば切り離された活動力を再び結びつけることが出来るのか。どうすれば現実に積極的になれるのか。可能なはずのことを実現できるようになるには、どうすればいいのか。結局のところ、それはまだよくわからないのだが。