22/03/17

 美しい文章は誰でも書ける。これは決して誇張ではない。書こうと思えば、それは誰にでも書くことが出来る。ニーチェは美しい文体の定義を「声に出して読んだ時、それが美しく響くかどうか」として考えた。彼によれば、ドイツ語で書かれた最も美しい書物はルター訳の聖書である。牧師である以上、ルターは発声した際に言葉がどう響くかをよく心得ていたのである。

 古代人には本を音読する習慣があったらしい。それはニーチェの『善悪の彼岸』だけでなく、アウグスティヌスの『告白』からも読み取れる内容だ。ある尊敬する人物(アンブロジウス)が本を黙読する姿を見て、著者が驚く場面がそこには収められている。韻文であれ散文であれ、古代ギリシア=ローマの書物に詩情溢れるものが多い理由も、もしかするとそこにあるかもしれない。彼らは皆発声を意識して執筆したのである。

 幸いにも、私はそれを二十歳になるかならないかの頃に知ることが出来た。実際、自分の書く文章が美しいということには自信がある。これは決して自惚れではない。私はその辺の凡庸な作家よりも遥かに美しい文章を書く。しかし、前述の通り、美しい文章なんて書こうと思えば誰でも書ける。声に出して読んだ際の響きを意識すること、あとは加えて文法上の規則を意識すること。たとえば日本語は「を」や「は」などの助詞を省略して話される傾向にある。行替え、句読点の使い方は、そのまま発声した際の文章のリズムに繋がるだろう。そこを考慮に入れれば、所謂「美文」というものは簡単に出来上がるものだと思う。よって私の自信は、それ自体大したものではないということがわかる。誰でも美しい文章など書けるのだから、書かない方がおかしいのである。

 問題は「美しい」以上の文章を書こうとすることだ。私が本を愛する理由は、本を読まなければ人生が退屈だからだ。もとい、あまりにも優れた書物に触れてしまうと、交通事故に遭った後のように、以前と同じように生きることが出来なくなる。その理由は、そこに書かれている言葉がこちらの胸を異様なまで強く打つからだ。本当に面白い本は、衝撃のあまり読んでいて疲れるし、苦痛を伴うものだ。現実逃避で始めた読書に、今や現実生活それ自体が狂わされることになる。しかしそれでも追いかけざるを得ない。本に触れなければ苦しみが避けられるが、しかし本に触れなければ味わえない喜びがそこにあるからだ。

 これこそ「美しい」以上の文章を読んだ時の特徴である。得体の知れない何者かが、私の胸を鷲掴みにする。それから逃れたいが、嵐を前にした人のように、迫り来るものから逃れることが出来ない。そして去った後には傷跡が残ることもある。場合によって一生癒えないかもしれない。しかしそれでも求めざるを得ないのである。

 では何故か。何故そこまでして本を読むのか。何がこちらをそれ程までに魅了するのか。それは他ならない、その本の中に自分にとって特別に見える、何か非常に意味深いものが含まれているからだ。あるいはそこに含まれる独特なニュアンスが、こちらを駆り立てざるを得ないのである。優れた書物は常に表現の問題に属する。「書くということは、来るべきものとして想定され、まだ自分の言語をもたない人民のためにおこなわれる行為です。」かつてドゥルーズはそう書いた。そして、彼は正しかった。どんなものであれ、芸術と呼ばれるものは、常に遠く離れた同胞への呼び掛けでなければならない。そして、それが含まれているならば、例えどれほど卑俗に見えるジャンルでも芸術を名乗る資格がある。

 思い出されるのは、プラトンが『饗宴』でアリストファネスに語らせた説である。人間は前世で神(ゼウス)の怒りを買い、元々ひとつであった身体が二つに引き裂かれてしまった。故に現世の我々は、かつて自分の半分であった相手を捜し求める。自分の片割れを追い求める。それは宿命的は彷徨である。快楽/苦痛を超えた一つの「そうせざるを得ない」に突き動かされ、そして最後には「そうしたい」と願うようになる。『饗宴』を読んだのもだいぶ前だし、内容もかなりうろ覚えだが、ある小説でこの話が取り上げられていたおかげで、今もその部分だけはよく記憶している。さて、話の規模が少し大きくなりすぎたが、私はこれを本気で信じている。読書も同じだからだ。読書とは、バラバラになった身体の破片を集める作業にほかならない。

 表現されるものは、その表現の外に実在しない。世の中には、表現されることによって初めてその存在が認知され、また初めて可能になる行為がある。『基礎づけるとは何か』の中で、ドゥルーズは概念の特殊さを指摘している。「実在するものが概念全体を満たすことはない。愛の概念を参照しよう。恋をしているどんな人でも「私は愛されている」などと口にすることはできない。概念は至る所で実在するものから溢れ出てしまう。」あるものの存在は、このように、表現されることによって可能になる。言語であれ非言語であれ、我々の生は表現によって初めて拡張可能になる。それこそ本を読む理由であり、あるいは人々が本を書く理由である。「有機体が死んでも生は残る。作品は、それが作品である限り、必ず生に袋小路からの出口を教えて、敷石と敷石の隙間に一筋の道を通してくれるものです。」

 苦痛は新しい快楽を可能にする。「興奮の拘束のみが、興奮を快へと「解消しうる」ようにする、それのみが興奮の放出を可能にする」と、ドゥルーズマゾッホ論において書いている。ロマン・ロランミケランジェロの内に弱さを肯定する倫理を見出したとも言える。類まれな才能を持ちながら、自律した人間として生きるにはあまりにも弱かったミケランジェロの生涯を、ロランは「ハムレットの悲劇」と呼んだ。ある観点からみれば、すべてが揃っている。上手に生きれば、どんな望みを実現することも可能だろう。しかし出来ない。自分の持つ力に耐えられないからだ。有り余る力と、それを外部に発露させるにはあまりにも弱い人間。ロランはミケランジェロをそのような人物として捉えた。しかし、ミケランジェロは自らの弱さを乗り越えるような芸術を生み出したのである。もしかすると、彼自身の弱さを利用して。

(ロランはミケランジェロの書いた詩や手紙を引用しつつ論を進めるのだが、それら二つが極めて美しい。ミケランジェロの詩がほとんど邦訳されていないのは実に悲しむべきことだ。「……おお神よ!我が内にありて、我に勝るものは何者ぞ?」素晴らしい言葉だ。何故私はもっとこれを読めないのだ。)

 ロランの本を読む際に大変慰められる理由は、ロランがあくまでも生を高貴なものとして捉え続けるからだ。喜びと苦しみは姉妹のようなものであり、その両方がなければ成り立たない。しかし、ひとつの苦痛の状態に留まることは、人に麻酔に打たれたような快感を与える。人は悲しみ続けることに特殊な喜びを見出すものである。ここに苦痛の恐ろしさがある。だからこそ、我々は苦痛を求めつつも、苦痛を乗り越えなければならない。そうでなければ、私は死の誘惑に負けて、永遠に停滞した泥の内に沈むことを求めるだろう。

"まさしくエロス[生の本能]こそが、己自身を循環として、あるいは循環のエレメントとして生きるのであって、それに対立する他のエレメントは、記憶の底にある <タナトス> [死の本能]でしかありえず、それら両者は、愛と憎しみによって、構築と破壊によって、引力と反発力として組み合わされている。"


 先々月末から今日に至るまで、どうも調子が悪い。死の誘惑を痛切している。二ヶ月近くやめていた酒も再開した。そんな中、ロマン・ロランの本が私の励みとなっている。長らく愛していながら、距離が出来つつあったドビュッシーの音楽もまた生気を与えてくれた。ツィメルマンの弾いた『前奏曲集』はいつ聴いても素晴らしい。まるで生きた彫刻が動いているようだ。

 もう一つ、慰めてくれる音楽がある。それはモブ・ディープの存在だ。九十年代のアメリカのヒップホップの素晴らしさは、ミュージシャンの大半が本当に教養のない若者だという点にある。犯罪と共に育ったモブ・ディープの二人は、(芸術の素養自体はあったらしいが) 無論ロランを読んだこともなければドビュッシーを聴いたこともないに違いない。しかし、彼らの音楽は極めて美しい。不良二人がこれほど個性的なビートをつくり、その上に極めて鋭いラップを載せる。こんなにも夢に溢れた話はない。一見すると音楽に無縁なガラの悪い若者が、他のどの音楽家でも奏でることの出来ない音楽を生み出している。新しい傑作とは、何処かしら場違いなところで生まれるのかもしれない。歌詞もいい。"When the slugs penetrate, you feel a burnin’ sensation/Gettin’ closer to God in a tight situation"美しい。代表曲Shook One Pt.2を書いた時、メンバーは二人とも十九歳である。

 ラップはいい。正直に言うと、私はラップがやりたい。去年の終わりごろから、少しずつ曲を作ったりしているが、いつかはラップにも挑戦してみたい。トラップやドリルも好きだが、やはりブーンバップが好きだ……。そして出来れば、もっと積極的に音楽活動もしてみたい。性格が性格だから、中々それも難しいのだが……。

 ドゥルーズの講義録も、読んでいて実にスリリングなものだ。邦訳では初期になされた三つの講義しか読めないことが悔やまれる。確かパリ第八大学の公式サイトでは、彼の講義録がどれも無料で公開されているらしい。その事を考えると、やはりフランス語が読めるようになりたいという気持ちが強くなる……。頑張って勉強したいが、生来の怠け癖で、中々手が伸びない。しかし、全講義を読み終えるまでにニ、三年かかるとして、その二、三年の間は退屈しなくて済む。先程書いたように、私が本を読む理由はそれがないと退屈だからだ。もとい、芸術一般を愛する人の気持ちは皆そうだと思われる。人生それ自体だけでは、あまりにも退屈で生き難い。芸術は我々を生かしてくれる数少ない手段だ。

 あとは小説も書いている。本当は二月に書き終える予定だったが、書くのが辛くて先延ばしにしてしまった。できる限り早く書き終えたい。頭の片隅にはいつもそれのことがある。そしてブログについても。ここ数ヶ月五日おきに更新する頻度を保ち続けていたが、それにも少し飽き始めてきた。五日前後の更新を目安にしながら、再び特に制約を持たせずに書いていくかもしれないが、その辺のことはまた後日決めようと思う。