22/03/22

 あらゆる生誕には何処かしら悲劇的な側面がある。誰も今の自分を望んで生まれるわけではない。生を肯定することは偶然を肯定することである。我々の実存は偶然によって形作られるから。

 どんな発見にも知ることの喜びが含まれる。ボードレールも指摘していたが、不幸に直面した人は、自分の不幸を多少なりとも誇張して語る。それは不幸の珍しさが知らないことを教えてくれるからだ。

 悲劇においては、物語が進行するにつれて、登場人物が自分にまつわる真実を知ることとなる。そして時には、知ることによってしか生きることが可能にならない世界線がある。しかし、すべての人物が自分の真実に耐えられるわけではない。だからハムレットは語ることとなる、「時間の蝶番が外れている」と。悲劇の本質には二つの奇妙な側面がある。知ることによって可能になる世界の発見、偶然に形成された多様なものの発見、喜びの発見。あるいは崩壊の過程、耐え難い真実の重さ、失われる自己同一性。

 ドゥルーズニーチェ論の冒頭で、悲劇とは「力動的な陽気さ」であると述べている。これはニーチェの悲劇に対する考察に基づいた意見である。「ニーチェによれば、人は悲劇的なものが何であるかを、つまり〈悲劇的なもの=喜ばしきもの〉であることを決して理解しなかった。(……) 肯定は悲劇的である。何故なら、それは偶然を肯定し、また偶然について必然を肯定するからであり……」悲劇的な生涯とは、決して苦悩に満ちた生涯、救済と贖罪を求める一生ではない。それはむしろ生を肯定し、偶然を肯定する一生である。ならば悲劇的な思考とは、未来と過去の無垢を信じること、永劫回帰を信じることでなければならない。

 ならばいかにして生を肯定し、偶然を肯定するのか。意志すること、創造することの問題がそれに対応する。「思考することは創造することである、これはニーチェの最も偉大な教えである。思考すること、骰子をふること……、既にそれは《永劫回帰》の意味であった。」