《イノセント》四

 その後も何度か老婆の家に顔を出した。その都度、快く迎え入れてくれた。俺は老婆の話し相手になった。話す内容はほとんどいつも一緒だった。親族が相手をしてくれないこと、誰からも忘れられてること、故に孤独の相手をしてくれる者がいて嬉しいこと。

「そんな、俺はミチコさんに何も出来ちゃいませんよ」

「そんなことないよ。あなたがいてくれるから、最近本当にあたし幸せよ」

 顔を出すにつれて、家の間取りをつかみ始めた。同様にして老婆の生活サイクルも把握した。裏庭の存在、その近くにある窓。それはトイレに通ずる窓であった。トイレに行く際、一度そこから出入りできるかを確認した。その時、初めて自分の身体が小柄なのを喜んだ。侵入経路も確認した。少しトイレから帰るのが遅れても、老婆は特に心配しなかった。

 スズキ宅に居ることが目撃され、計画後に疑われ始めることを恐れた。よって、二度目以降の訪問ではなるべく外から見えない場所で過ごすようにした。訪問する時刻を毎回変えることで、どの時間帯にどのような過ごし方をしているかを確認した。昼食後はうたた寝していることが多かった。居間にある肘掛椅子に揺られながら、二重あごをつくり、眼鏡もかけたままであった。日差しが毛布のように彼女の身体を暖めていた。しかし、カーテンを閉めれば太陽すらも見張りはしなくなった。


 計画実行前の最後の訪問の時のことだ。老婆は俺が来たことに気が付かなかった。見ると、いかにも気持ちよさそうな姿で眠っていた。起こそうか迷った。しかし、このまま殺すことも出来た。ただ結局、その日は何もしなかった。自分が来たことも伝えずに、静かに帰った。

 悩んでいた。何故わざわざこの人を殺す必要があるのか。自分の気まぐれで、こんな優しい人を殺していいのか。そんな疑問が頭に思い浮かんだ。きっと駄目なのだろう。しかし正直に言えば、何故自分が殺してはいけないのか、その理由がわからなかった。ミチコさんは優しかった。ご飯をご馳走してくれたし、俺のくだらない話にも笑ってくれた。それに、孤独な人でもあった。しかし、それが殺人をしてはならない理由になるのかはわからなかった。

 必要な道具はある。シュミレーションも何度も行った。殺すべきは、彼女が昼寝をしている午後一時から二時の間にかけてである。肘掛椅子に揺られながら、日差しを浴びて眠りを貪る老婆の首筋を締めなければならない。これは一つの使命だった。何故かはわからないが、そのように思われた。はじめはただの思いつきだった。しかし、それを何度も頭に思い浮かべるうちに、自分はこれを実行しなければならないという強迫観念を感じていた。


 計画当日。食事を済ませたあと、十一時半に家を出た。裏表で柄の違うスカジャンを着用。肩からさげた小さなバッグには、手袋とかつら、かつら用ネット、伊達メガネ、ニット帽、そして縄が入っている。十三時半、目的地付近の駅に到着。正確には、この駅はスズキミチコ宅の最寄りより一駅離れている。道中のトイレで変装するためだ。

 三十分かけて被害者予定の女性宅に到着。裏庭にまわり、トイレの小さな窓から侵入をはかる。成功。いつも通り、窓には鍵かかっていない。侵入する際、誰かに目撃されていないかを確認する。道路には誰もいなかった。

 足音を殺し、居間へと向かう。家の中から物音はしない。恐らく、あれはいつも通り眠っている。

 やはりそうだった。老婆は眠っていた。遠目で確認しつつ、窓越しに誰かに目撃されることを恐れた。這うようにして移動。そしてカーテンを閉める。起き上がる。老婆はまだ起きていない。バッグの中から縄を取り出す。完全犯罪が成立するまで、間もなくであるように思われた。

 しかし、不思議なことがあった。目標達成を前にして、しばらく何もせず突っ立ってしまったのである。再び、あの問いが思い浮かんだ。「何故殺さなければならないのか?」あるいは「何故この人を殺す必要があるのか?」無防備に眠るミチコさんを前にして、やっとその意味が理解出来た気がする。それは、自分の内にある「この人を殺したくない」という感情であった。恐らく、それが彼女を殺害してはいけない理由だった。

 知らぬ間に、涙を流していた。一時間近く、もしかすると彼女を前に立っていたかもしれない。少しずつ、自分の顔が醜く歪んでいくのがわかった。一体、俺はなんていうことをしようとしていたんだ。こんなに心の美しい人を殺そうとするなんて。俺はなんてことをしようとしていたんだ。なんて馬鹿なことを思いついてしまったんだ……。

 両手で顔を覆い、その場に座り込んだ。もう起きてもおかしくない頃だった。しかし、ミチコさんはいつまでも眠っていた。結局、俺は何もせずそこを出た。入ったのは裏庭からであったが、出ていく時は正面の玄関から出た。それから、宛もなくよく知らない土地をほっつき歩いた。


 どれくらい歩いただろうか。二時間、いや三時間はほっつき歩いたかもしれない。既に陽は沈みつつあった。地平線に燃える灯火は、再び闇夜に迎えられていた。コンクリートの小道の両脇には、均等に並べられた電灯が突っ立っていた。青白い街頭は夜の訪れを告げていた。

 もう何もわからなかった。ここは何処なのだろう。何をしているのだろう、自分は。失望感、あるいは虚脱感のようなものに襲われていた。これからどうすればいいのか、どうやって帰ればいいのかわからなかった。頭がかゆかった。かつらを外そうと考えたが、そうするには先ずニット帽を脱がなければならなかった。そしてニット帽、かつらを脱いだ後には、ネットも外さなければならないだろう。考えただけで面倒だった。どうせこれから夜が来るんだし、寒くなるだろうから、このままでいいだろう。あー、もうめんどくせえ。何もする気が起きなかった。

 そもそも、俺は重大な思い違いをしていた。あの家に何度も出入りしているのだから、こんな変装をした所で、髪の毛だって落ちてるだろうし、指紋だって至る所に付着しているに違いない。ああ、なんて馬鹿なんだろう。何故こんな簡単なことに気が付かなかったんだ。一体、俺は何をしてるんだ。

 その時である。落胆する俺の前から、人影が近づいてくるのがわかった。否、これまでにも何度か人が通り過ぎたのに、何故今になってそれが気になったのかわからない。とにかく、俺は目の前から近づいてくる相手に釘付けになった。それは五十歳前後の女性だった。恐らく、仕事帰りだろう。怪しい素振りを見せないように意識しつつ、後ろを振り向いた。この直線上には、女性と俺の二人以外の誰もいなかった。

 やがて交差して、女性は俺の傍を横切った。こちらの事など微塵も怪しく思っていない様子だった。ふと、頓挫した計画のことが思われた。このまま何もせずに帰るにはあまりにも惜しい気がした。否、それは俺のプライドが許さなかった。そして、これ以上自分のプライドを傷つけたくなかった。次第に鼻息が荒くなる。手汗がべっとりしていた。拭う。そして、バッグから手袋とロープを取り出した。後ろを振り向く。女性はまだそう遠くに行ってない。曲がり角はまだ先のようだ。

 静かに、静かに。息を抑えつつ女性に近づく。心臓の音があまりにもうるさい。耳元で鳴っているのではないだろうか。再び周囲を確認。誰も俺を見ていない。完璧な瞬間だった。世界の時間が静止していた。

 女性の背後から約二メートルの距離。俺は一気に駆け出した、獲物に食らいつく狼のように。女性が物音に気がつく。一瞬こちらに振り向こうとした。しかし遅い。その前に、俺はロープで首を絞めていた。

 う、あ、あ、う。潰れた声が喉から溢れ出る。もうこちらも息を抑えはしない。フー、フー、フー、フー。吸って、吐いて、吸って、吐いて。一つ一つの呼吸がため息のように重い。そして、吐けば吐くほど益々首を絞める力が強くなった。頭が真っ白になる。青白い照明の下で、女性の顔は次第に赤くなり、つぎに紫に変色していった。もういいだろうと思った。しかし、これでまだ死んでいなかったらどうしよう。そう思うと、まだロープを緩めることが出来なかった。

 ふと、誰かが後ろで見ているような気がした。どうしよう。一刻も早くここから逃げなければ。しかし、まだ死んでいなかったどうしよう。このままでは、俺は夢に見たあのシーンを繰り返してしまう。

 そう考えた途端、これまでにないくらい大きな力が湧いてきた。見ると、女性は驚くほど醜い、だらしない顔に変化していた。もしかすると、もう一分前から声を出していなかったかもしれない。

 縄を外した。バタン。肉体の倒れる音がする。しかし足元へ目を向けることはできない。首を左右に振った。誰もいない。しかしいつ誰が来るかわからない。

 走った。とにかく走った。走っている最中に、ニット帽を脱いで、かつらを脱いで、伊達メガネを外して、手袋を外した。そしてそれらを全部バッグの中に詰め込んだ。はあ、はあ。自分が何処にいるかわからなかった。元々わからなかったのに、闇雲に走ったせいで更にわからなくなってしまった。念の為、スカジャンを裏返しにして、元の柄に戻した。

 次に俺のするべきことは一つだった。駅に向かい、そして家に帰ることだ。

 それから約三十分後だろうか。何とか駅にたどり着くことが出来た。放心状態になり、ほとんど本能で歩き回っていた。電車の中で、気分を落ち着けるために音楽を流し始めた。J.コールの歌声が聞こえる。

 I see the, I see the rain pouring down
 Before my very eyes
 Should come as no surprise
 雨が降るのを見る
 俺の目の前で
 なんの驚きも伴わずに

 たどり着いた駅はこれまでに聞いたこともない名前だった。自宅の最寄りに着くまで、何度も乗り換えを強いられた。しかし、それがむしろ幸運だったかもしれない。乗り換え先のゴミ箱に、一つ一つ今回の犯行で使用した道具を捨てた。家に着いた時、このスカジャンも捨てなければならないと思った。

 最寄りに着く頃には、既に時刻は夜の九時だった。帰りの途中、警察に遭遇しないかと絶えずビクビクしていた。しかし、無事に帰宅することが出来た途端に、俺は笑いが止まらなくなった。やった!やってやったぞ!俺はやったんだ!他の人には出来ないことをしてやった。どうだ!あんな風に変色するのを見た奴なんてそういないに違いない。俺は誰にもできない、すごい事をやったんだ!ただの「ごっこ遊び」じゃない。俺は天才だ!天才的な人間なんだ……。

 しかし、今になってこの時の高揚を思い出すと、自分の何がそんなにも天才的なのか、よくわからなかった。

 ベッドに寝転がると、すぐ睡魔に襲われた。きっと疲れていたのだろう。服も着替えず眠りに落ちた。

 目が覚めると、今度は全能感とは真逆の感情に襲われた。今すぐにでも自分が捕まるような気がした。実は重要な証拠を現場に残してしまい、そのために、間もなく警察が俺の家に来ようとしているのだと思った。気を紛らわすために、犯行時に着ていたスカジャンをビリビリに破いて捨てた。そして不安から逃れるように、再び眠りに落ちた。

 意識が落ちる前、耳にしていないJ.コールの声が頭に響き渡っていた。

 Scattered like roaches, a body laid on the concrete
 A body laid on the concrete
 Look, somebody laid on the concrete
 吸い殻が砕けるように、コンクリートに身体が横たわる
 コンクリートに身体が横たわる
 見ろ、誰かがコンクリートに横たわっている