《イノセント》五

 何故人を殺さなければならなかったのか?あるいは、何故殺す必要があったのか?自分でもわからない。ならば、次のように問おう。何が自分を殺人に走らせたのか?あの瞬間、横切る女性を目にして「実行しなければならない」という思いを強く感じた。それは何故なのか?やはり、それはわからないままだ。しかし自分がただわからないのか、あるいはわかりたくないのか、それすらも今はわからないのである。

 殺してから五日の間は部屋でじっとしていた。バイトも行かなかった。無断欠勤が続いたので、俺はそのバイトをクビになった。今から思えば、これはとても危ない行動だった。もし警察が俺に目星をつけていたなら、この突然変異をおかしく思うに違いない。

 しかし結局、警察が俺の家に来ることはなかった。見た目が普通だからか、今日まで職務質問だってされたこともない。ある日突然家宅捜索が来るのではないかと考えて、頭では何度も警察とのやり取りをシミュレーションしたのだが。「きっと向こうはこう聞いてくるに違いない、それに対して俺はこう答えて、そして向こうは次のようなことを問い尋ねてきて……」といったふうに。しかし結局、それも考えすぎに過ぎなかった。どうやら俺の人生には『罪と罰』のポリフィーリーに該当する人物は現れないらしい。少し会ってみたかっただけに、残念である。


 全能感に酔っては、次の瞬間には不安で泣き出しそうになるのを何度も繰り返した五日間であった。しかし、自分の犯行が成功したかを確認するには、直接犯行現場に赴くしかない。そのことに気づいたのは、事件から丁度五日目の夜であった。しかし、前述の内容からもわかるように、俺は自分が何処で殺したのかがわからなかった。あの時は無我夢中だったから。

 ただ、道端に絞殺された死体が転がっているなど、冷静に考えてそうない事件である。多分その地域の新聞に掲載されていてもおかしくないはずだ。

 幸いにも、自分が帰る際に利用した駅の名前は覚えていた。俺は再びその駅に舞い降りた。そして、付近にある図書館の新聞を読み漁ることにした。そうすれば自分の事件について知ることが出来るはずだ。こうして犯行から六日目、俺はついに家から出た。


 街を歩くのは怖かった。誰かが俺の犯行を見ているかもしれなかった。街中で話しているふたりの人間が、もしかすると俺の話をしているかもしれなかった。「あら、あの人じゃない?あの時首を絞めてたの」「ええ、きっとそうに違いないわ」……そんな会話をしている気がしてならない。被害妄想なのはわかっていた。それだけに、一層自分が馬鹿らしく思えた。妄想だとわかっていて怯えているなんて、あまりにも滑稽である。

 電車に乗り込む。寒い時期なのに脇汗が止まらない。該当する駅に近づくほど、鼓動は高まった。誰かにじっと見られていると、眼差しだけで何かがバレてしまうのではないかという恐怖に襲われた。視線がすべてを見抜かれてしまうことが有り得るかもしれなかった。今なら統合失調症患者の気持ちも理解できると思った。

 しかし、幸いにも、誰も、何も指摘をしなかった。

 図書館に着くと、真っ先に新聞在庫のコーナーに向かった。そしてこの五日間の新聞を洗いざらいに読んだ。該当する思われる記事を見つけた。読んだ。五十四歳の主婦が死亡、首筋にはロープの跡有り、女性はマッチングアプリで頻繁に複数の男性と会っていて、警察は人間関係のトラブルと考えて捜査を進めていく、等々……。

 この瞬間、どれほど心が晴れたことか。決して言葉ではいい表せない。スポットライトが当たるように、暗闇にいる自分の周囲が明るく照らし出された。これは究極の犯罪だ、犯罪の神様が味方をしてくれたんだ!そう思わざるを得なかった。

 ああ、帰り道の陽気さよ!目に映るものすべてが自分を祝福していた。何気ない風景に、究極的な美しさが潜んでいるのだということに気がついた。俺は捕まらない!決して捕まらない!何故なら、俺があの女性を殺す理由など何ひとつとしてないからだ!完璧な、あまりにも完璧な犯罪。「理由なき殺人」の理屈が正しいことは証明された!俺は自分の知性と行動力に酔いしれた。歩き方もほとんどスキップに近い状態になっていた。

 その夜は気持ちいいくらいよく眠れた。次の日の朝、目覚めの太陽の美しさを、俺は一生忘れないだろう。


 手記の冒頭で示した疑問を覚えているだろうか?そう、「何故フィクションの犯人は皆捕まるのだろう」というものだ。

 犯行から半年が経つ頃、俺はそれの答えを見出した。それはあまりにも唐突な出来事だった。電車に揺られながら、いつも通り本を読んでいた。すると突然、その問いの意味が理解できたのである。そう、何故フィクションの犯人は捕まるのか?あるいは、どうして誰も殺人のあとを描こうとしないのか?

 その理由は簡単である。破滅しない犯人などこの世に存在しないからだ。少なくとも自分のような人間の場合、もう一度どこかで犯罪的な行為を繰り返さざるを得ない。何故か?その時の感覚が忘れられないからだ。戦争に赴く兵士たちは、戦争のない期間、テレビあるいはパソコンでシューティングゲームをするという話を聞いたことがある。今なら彼らの気持ちもわかるきがする。犯罪的な行為、人間の生死に関わる瞬間に立ち会うということには、他では決して味わえないスリルがある。ある者はそれを求めて肉体改造に励むだろうし、またある者はそれを求めて薬物に傾倒するだろう。日常生活から外れたところにある体験は、それがどれだけ否定的なものであろうとも、苦い喜びを見出さざるを得ない。あまりにも強い悲しみは特殊な快楽を人々にもたらす。それと同様で、犯罪によって得られた喜びは、同じ犯罪的なものによってしか得られないのである。

 今やすべてが明瞭になった。フィクションの犯人が捕まる理由は、遅かれ早かれ彼らが捕まる運命にあるからだ。何故なら犯人は、理由なき殺人に至った彼は、再び犯罪的な行為を繰り返さざるを得ないからだ。結局俺のような馬鹿は、懲りるまで何かをやり続ける。そして懲らす方法があるとすれば、それは罰されること以外に他なかった。あのとき握ったロープの感触、身体の震え、空気の冷たさ、街灯の青白さ、そして被害者の顔つき。そのすべてを鮮明に覚えていた。無断欠勤のせいでバイトをクビになったあと、新しく始めたバイトも、既に辞めそうだった。今の自分には、目に映るものすべてが退屈に見えた。上手くいかない生活は、益々俺に苛立ちを与えるばかりだ。再び何処かでウサを晴らさなければならない。

 不思議なのは、自分の行為に微塵の後悔も感じることが出来ない点である。客観的に悪いことをしたのはわかっていた。しかし、だからといって「自分は悪いことをした」と心から思ってるかとなれば、全くそんなことはなかった。罪悪感というものは、罪の意識というよりかは、むしろ罰されることへの恐怖から生まれる。自分を罪深い人間だと思う者の方が、情状酌量の余地がある。だから人は「自分は悪い人間だ」と思い込もうとする。もしくは、たとえば母親の悲しむ顔が見たくない息子がいたとすれば、その場合、「母親の悲しむ顔」それ自体が彼への罰となる。要するに、罰がなければ良心は機能しない。今の俺には、罰される恐怖がまるでなかった。

 読んでいる本の内容がまるで頭に入らなかった。ペンを片手に、書き込みながら読むことで何とか集中しようと思った。しかし、駄目だった。気が散った。本を閉じ、ため息をつく。思えば、前回の犯行は失敗点が多かった。何故もっと上手くやらなかったのか。きっと出来たはずなのに。もし次回があるとすれば、その反省点を踏まえてことに及ばなければならない。

 その時である。不意に、こちらを見つめる視線の存在に気がついた。その方へ顔を向けると、一人の若い女性がこちらのことを眺めていた。その顔には見覚えがある気がした。しばらく見つめあった後、彼女は目を逸らした。それと同時に、電車が停り、ドアが開いた。女性は降りていった。

 走り出すまでには少し時間がかかった。しかし、「ドアが閉まります」という音声が意識をはっとさせた。駆け出した。彼女は既にエスカレーターに乗り込んでいた。正直に言うと、まだ向こうが誰であるのか、確証がもてないでいた。しかし頭の中には、ある懐かしい人の面影がちらついていた。彼女の背後に追いつくと、向こうも物音に気がついたのか、こちらに振り向いた。エスカレーターは既に地上に到着しそうだった。そして、こちらを見つめる顔を覗き込んだ時、自分でも知らず知らずのうちに口を開いていた。

「……美玲さん、だよね?」

 自分の荒れたい気遣いがうるさかった。はあ、はあ。久しぶりに走ったから、この短い距離にも疲れていた。

「化粧が違うから一瞬わからなかったけど、きっと美玲さんに違いないと思って、急いで電車をおりて追いかけてきたんだ。久しぶり」

 無言でこちらを見つめる彼女。人違いだとは思わなかった。ただ、少し自分のことが不安になってきた。やはりこの行動はやり過ぎだったろうか?ちょっと気持ち悪くなかったか?

「……やっぱちょっとキモいかな、こういう行動って」

 思わず聞いてしまった。それに対して、向こうは笑いだした。そして、やっと口を聞いてくれた。

「久しぶりだね。高校卒業して以来だもんね。ふふ、元気してた?」

 高校時代から雰囲気の変わったこの女性は、同級生の美玲さんであった。俺の高校時代の一番の友だちだった美玲さん。

 エスカレーターは既に地上につき、二人は向かい合っていた。

「最寄り駅ここなの?」

 しばらく黙って彼女を見ていると、美玲さんが聞いてきた。俺は慌てて口を開いた。

「いや、全然違う」

「ええー」

 何を言うのが正解かわからなかったから、思ったことをそのまま言うことにした。

「あの、えっとさ。このままさ、家まで送ってくのも下心あるみたいでキモいと思うし、そんなこと言うつもりはさらさらないんだが、でも、もう少し君と話したいから、よかったらちょっと一緒に歩かない?」

 自分がダサく、しどろもどろとしていることは明瞭だった。彼女は驚いたようにこちらを見つめていた。そして言った。

「変わらないねえ、君は」

「そうかな?」

「うん」

「たとえば?」

「そうだなあ」

 彼女はやや考え込んでるようなポーズを取った。

「なんというか、 素直だよね」

「素直?」

「うん、素直」

「そうかなあ」

「そうだよ」

「そうかあ」

 追いかけている最中に外れたイヤホンからは音が漏れていた。聴こえてくるのはJ.コールの"She's Mine Pt.1"であった。