《イノセント》七

 結局、ここまで徹夜で書いてしまった。元々眠るのが怖かったから、丁度よかったかもしれない。

 これを読んだら、君はなんと思うだろうか。正直に言うと、未だに自分の行いを悪いと思えない。あんなおばさん、どうせ生きても死んでも大して変わらないはずだ。それに、内心あれが本当に死んでいるのだと信じきることが出来ないのだ。実はまだ生きていて、何処かをさまよっているのではないかという気がしている。縄をといた後、俺はあの女が本当に死んでいるかどうかを確認しなかった。もしかしたら新聞に載っていた女性は全くの別人で、俺が偶然見かけて殺そうとしたおばさんはまだ生きているのではないか。そう、これを書いている今この瞬間にも、突然ドアを開けて俺の部屋に入ってくるのではないか。よくそんなことを考えている。そう言えば、あれからミチコさんの家にも足を運んでいない。意識しているつもりはないが、殺し損ねた女に会うのが恐ろしいのかもしれない。実はあれがまだ生きていて、俺を恨んで探しているのかもしれないのだ。

 もしかしたら、俺はずっと長い夢を見ていたのかもしれない。確かにあの時の緊張や、異常な高揚感をよく覚えている。しかし、他に比類すべき経験が何処にもない。その上、あまりにも自分の日常生活から逸脱している。だからどうしても自分のことと思えないのである。

 そうだ、俺は長い夢を見ていたのだ。だからこんなにも後悔を覚えることができないのだ。


 よく見る夢の一つでは、警察が俺の家に訪れる。しかし、そこは今俺が住んでいる家ではない。それは実家だ。古い、まだ両親がいた頃の家だ。けれども、そこには両親の姿は見えない。代わりに見えるのは、いつも俺と遊んでくれる友人二人の姿、そして美玲さんの姿だ。警察は言う。証拠は揃っている。あとは君を捕まえるだけだ。それに対して、コウタが言う。いや、違う。こいつはやっていない。タカシも言う。そうだ。その日俺達は一緒にいた。一体何を根拠にこいつが犯人だと言うんだ。そして美玲さんも言う。ええ、この人はやっていない。やるわけがない。皆が代わる代わるに俺をかばう。それに対して、俺は何も言うことが出来ない。警察は何も言わずに笑っている。そして、笑いながら俺を見ている。

 この夢を見た日、俺はまたコウタの家に泊まっていた。アイツは先に起きて、朝食のパスタを作っていた。俺はまだ、ここが夢か現かの判別がついていなかった。やっといつも通りを取り戻して、言った。

「俺にも一口くれよ」

「おう、いいよ」

 煙草に火をつけた。吸い始めてから三年経つが、未だに何がいいのかわからない。ただ吸っている男の方がかっこいい気がするから吸っている。習慣のおかげだろうか、煙の匂いを嗅ぐと、何だか気分が安らぐ。さっき見た悪夢の印象も、煙草のおかげでやや薄れたように思える。

「なあ、なんだか嫌な夢を見ちゃったよ」

「へえ、どんな」

 俺は内容を濁して話した。

「捕まるんだよ、俺たち皆」

「ハハハ、最悪だな」

「だろ?」

「うん」

 沈黙。両者の燻らす煙だけが辺りを満たした。

「なあ」

 再び口を開く。

「今度はなんだ」

「最近、好きな娘が出来たんだ」

「へえ、いいじゃん。告白しないの?」

「いや、出来ないよ。俺童貞だし、そんなことする度胸ないよ」

「えっ、お前童貞なの?」

「言ってなかったけ?」

「初めて聞いたわ」

「そうか、そういやこういう話あんましないもんな」

「おお、そうだよ」

「ハハハ」

「ハハハ」

 二度目の沈黙。今度はコウタが口を開く番だった。

「どうなん?その娘とは」

「わかんないんだ、それが」

「わかんないって、どういうふうに?」

「実を言うと、それもわからないんだ」

「変なやつだな。何もわからないじゃないか、それじゃあ」

「うん、だから困ってるんだ」

「なるほどなあ」

 その時、丁度パスタが茹で上がった。コウタのつくるパスタは美味しかった。


 もう一つの夢は、皆に嫌われる夢だった。ある日突然、何も言わずに、皆が失望して、俺の前を去っていく。一人一人、少しずつ去っていく。最後に美玲さんが俺の前に現れる。彼女が俺に告げる、「さようなら」と。俺は泣く。泣きながら袖を掴む。そして言う、「行かないでくれ」と。彼女は何も返さなかった。ただ、こちらを見下ろす彼女の眼差しは、あまりにも冷たく、残酷だった。それだけで、俺は彼女が既に失望していることを、そして二度と向こうの信頼を勝ち得るのが不可能であることを知った。

 汗で濡れた身体をシャワーで洗い流しながら、何度その夢のことを考えたことか。初めて見たのは、彼女と出かけて何度目かの次の日であった。そして、おのずと彼女と会う前日にも同じ夢を見ることとなった。事実はどうであれ、それは不吉の前兆として思えなかった。

「なんだか顔色悪いね」

 集合場所にたどり着いた時、開口一番の言葉がそれであった。

「うん。ちょっと嫌な夢を見て」

「へえ、どんな?」

「君に嫌われる夢」

 美玲さんは笑った。「笑うなよ」と小突いたが、しかし笑ってくれた方が救われる気がした。

「それでそんな嫌な顔してるんだ?」

「うん。てか、そんなに顔色悪い?」

「うん。今にも死にそうだよ」

 お互いに昼食がまだだったので、とりあえず近くのファミレスで済ませることにした。休日だから人が多かった。もっと静かなところで話したいと思った。が、俺はこうして彼女とファミレスで過ごす時間が好きでもあった。それが一般性の象徴のように思えて。

「何か悩み事でもあるの?」

 お互いの料理を頬張りながら、彼女が口を開いた。

「どうなんだろ、わかんないや」

「君、本当にいつもそればかりだね」

「どういうこと?」

「私が何かプライベートなことを聞こうとする度に、『わかんない』ってはぐらかされる気がする」

「そうかな、だとしたらごめん」

「いいんだよ、思ってない謝罪なんかしなくて」

「ごめんて」

「ふふふ」

 笑いながら俺を見つめる美玲さんは綺麗だった。そのまま、しばらくまたくだらない話をした気がする。

 突然、彼女が話題を変え始めた。

「『パラノイド・パーク』の終わり方、覚えている?」

「ああ、覚えてるよ」

「主人公がノートに自分の殺人の告白を書いて、それを燃やす」

「うん、そうだったね」

「あれ、やってみたら?」

「は?」

 思わず手が止まり、彼女を凝視してしまった。口はあんぐりと開き、日常言語を語ることが難しいように思えた。もしかして、彼女は俺の殺害に気づいているのか?

「多分、私に話しづらいんでしょ」

「なにが?」

「色々と。だって、いつも何も話してくれないし……だから、『パラノイド・パーク』の主人公と同じことをしてみたら?って思ったんだよね」

 少しずつ、脳の理解が追いついてきた。

「覚えてる?映画の最後で、女の子が主人公にアドバイスするの。自分が悩んでる時は、宛名を考えて、その人向けに手紙を書くんだって。で、そこに何もかも告白しちゃうの。自分の悩みや、葛藤や、とにかく思いの丈の全部を。何があって、何を思ったのかを。けれども書き終わったら、それをその人宛てに送らない。全部まとめて燃やすの、誰にも読ませないまま。それで結構スッキリするって。違った?」

「いや、大体そうだったと思う」

「じゃあさ、試しにあれと同じことやってみようよ。宛先は私で、私に告白するつもりで、何があって、何を思ったのかを書いてみて。別に渡さなくていいから。映画の主人公みたいに、全部燃やしちゃえばいいんだよ」

 美玲さんは優しかった。それは彼女の感傷癖と同じで、刃物のように危険なものと思われた。

「……てか、話してたら何だか観返したくなってきちゃった。今度一緒に観ない?よく話す友達の家にも行ってみたいし、そこで皆で観ようよ。あんまり盛り上がる内容じゃないけどさ」

「うん、勿論」

 返事をするまでに、数秒かかった。それは何を言えばいいかわからなかったからではなく、何かを言うのがあまりに億劫に思えたからだった。


 夜が明ける。書きながら、もう何度"4 Your Eyez Only"をリピートしたかわからない。このアルバムを聴いていると、過ぎた青春の日々が思い出される。君はどうかわからない。ただ、少なくともあの頃、俺は幸せだった。今と昔だと、君は雰囲気が違う。化粧の仕方を変えたのか、それとも整形したのかはわからない。ただ一つ言えることがあるとすれば、今も昔も、君は変わらずに美しいということだ。確かに君は変わった。しかし、それは大した問題ではない。君の見た目がどうであろうと、俺は不思議と君に惹き付けられる。本当は面と向かってその事を語るつもりだったが、それも今日までできなかった。だからここに書き記そうと思う。

 以上で俺の告白を終える。なんだか疲れた。そろそろ寝なければならない。明日、君はなんて言うだろうか。また「顔色悪いね」なんて言われなければいいのだが。