22/04/04

 マーラー交響曲には自閉的な美しさがある。『千人の交響曲』という別称からもわかるように、規模が大きく、演奏する上で多くの奏者を必要とする。しかし、それは何処までも他者に対して閉ざされている。まさに無人の城だ。マーラーの音楽には説明が介在しないのである。結晶的かつ貴族的な世界の内部には、誰も (彼自身さえも) いない。この点で、マーラーヴィスコンティプルーストに近い。「……芸術と生からあらゆる内面性を奪ってしまう運動の中にあって、彼のいくつもの無人の城を支配する。」

台風クラブ』という映画がある。先日初めて観て大いに感動したのだが、中でも特に惹かれたのは健という少年の登場人物である。不器用で、人との関わりが上手くできない。意中の女子生徒がいても、どう話しかければいいかがわからない。だから彼は、理科の授業中に彼女の身体に酸をかけることとなる。それ以外の接し方がわからないからだ。うなじから背中にいたる制服の隙間から注ぎ込まれた酸は、文字通り焼けるような苦しみを彼女に与える。彼は呆然とそれを眺める。先生に叱られて、涙ぐんではいるが、しかし後悔はしていない。あるいは後悔することができない。彼の世界には他者が存在しないから、彼女の苦痛に共感することが出来ないのだ。では何故涙を流すのか?それは先生に叱られることが悲しいからに他ならない。

 では何故酸をかけたのだろう?確かに「どう接すればいいかわからない」は一つの理由だろう。が、それだけではない。彼女の身体に消えない傷をつけることで、それが自分の所有物であるという感覚がほしかったのではないか。自分の汚れを擦り付けることで、犬のようにマーキングしたかったのではないか。「おかえり」「おかえりなさい」「ただいま」を独り言で何度も繰り返すのが彼の習慣だった。それは彼の家庭が上手く機能していないことの証かもしれない。思えば彼の父親は、廃人のように何も言わず、ただ家の中と外を行ったり来たり歩き回ってばかりいた。丘の上にある家の周辺は、思春期の子供が過ごすにはあまりにも殺風景である。あたかも「おかえり」「おなえりなさい」は彼が両親に期待していた言葉であり、また「ただいま」はその空想上の二人に宛てられた言葉であるかのようだ。しかし、この解釈はあまりにも感傷的すぎるだろう。それよりむしろ、話を先に進めた方がいいはずだ。

 台風が訪れる当日、彼はひとり校内を歩き回っていた。そしてクラスを覗くと、彼の意中の女子生徒は机に伏して眠っていた。それに見とれる、そして彼女の席の後ろにつく。再び、あの独り言を繰り返す。「おかえり」「おかえりなさい」「ただいま」を。

 声に気づいた少女が目を覚ます。後ろを振り向くと、そこには自分に酸をかけたあの少年がいる。怯える少女は口を開く。

「なにしてんのよ」

 少年はこたえる。

「なんでもいいだろ」

 彼にはこれが彼女と仲良くなる絶好の機会だと思えた。だから、あまりにも突拍子のない誘い文句を口にする。

「なんでもいいけどよお、今度一緒にマクドナルド行かね?」

 少女は席を立ち、後ずさる。彼はそれに近づこうとする、彼を避ける彼女に。しかし彼女は叫ぶ、「こないで」と。しかし近づく。否、近づくことしかできない。普段は無視されている自分が、唯一彼女から反応を貰える方法が、もはや彼女が嫌がることをすることしかないと気づいてしまったからだ。仲良くなりたいが、仲良くなれない。ならば嫌われても関心を寄せざるを得ないようなことをするしかない。ストーカーの心理である。無関心よりは嫌われる方がまだ関心を寄せられるから、余程好ましいというわけだ。

 逃げ惑う少女。少年はそれを追いかける。誰もいない校内を走り回り、逃げ込んだ部屋の鍵を閉める。しかし彼は追跡をやめない。野球によって鍛えられた逞しい肉体が、木製の扉に何度も蹴りを入れる。その間も、彼は取り憑かれたように独り言を呟く。「おかえり」「おかえりなさい」「ただいま」……。

 ついに少女を捕まえた。抵抗する彼女をおさえ込み、その服を破り裂く。勿論、最初はそこまでするつもりなどなかっただろう。決して。しかし彼女とコミュニケーションを取るためには、もはやそれ以外の手段が思い浮かばない。相手の嫌がることをすれば、普通に接するよりも自分によく構ってくれるからだ。

 しかし、ここで彼の常軌を逸した運動は中断を強いられることとなる。引き裂いた制服の下からやけどの痕が見つかった。それは彼が理科室でかけた酸の傷であった。恐らく一生消えないであろう傷を見て、彼は泣き出す。そして手当たり次第、近くにあるものを壊す。自分の苦しみを癒すには、もはや破壊以外の手段がない。

 暗い色調と水の使い方がとても美しい映画だったが(特に雨の描写が美しかった)、やはり惹き込まれ始めたのは健が活躍し始めてからである。実を言うと、人生のある時期まで、自分はこの少年と同じ側の人間だと思っていた。世の中には健のような人物を忌み嫌うひとが多いだろうが、しかし私には彼の気持ちが痛いくらいにわかる。もとい、そんな気がする。他人の感情がうまく汲み取れないから、どう接すればいいかわからない。結果として突拍子のない行動に走ってしまうが、悪気はない。自分は苦しんだ挙句にそういうことをしてるのに、そんな自分を周囲の人間は責める。だから益々他者に対して暴力的になってしまう。

 運がよかった。偶然にも人生の何処かで分岐点が存在して、彼のような人間にならなくて済んだから。しかし、やはり自分はこの健という少年に似ているのではないかという気がする。私は本当に運がよかったから「そちら側」に行かなくて済んだが、もし選択が異なっていたら、きっと彼と似たような行動をとっていたに違いない。もとい、本質的に私と彼の間にはあまり大きな違いがない気がする。

(健のような登場人物は、線の細いイケメンがやっていたら所謂「ヤンデレ」として人気が出るのだろう。しかし、それを演じるのはあまりにも芋っぽく、野球部らしい風貌をした少年である。それが本当にいい。度々思うことだが、世の中「顔がいい」というだけで許されることがあまりにも多い。単純に不公平だというか、ずるいと思う。『台風クラブ』が面白いのは、イケメンが演じれば許されるかもしれないことを大してかっこよくない少年が演じていることだ。)

 似たような共感を、ヴィスコンティの遺作『イノセント』にも抱いたことがある。「イノセント(罪なき者)」というタイトルからもわかる通り、主人公は悪意なく背徳行為に耽る。妻の前で堂々と他の女性の話をし、「こんなに夢中になった女は初めてだ」と語る。そして、自分がそのひとと関係を持つことを「我慢してほしい」とお願いする。にも関わらず、妻が自分以外の者との子供を妊娠したと知る時には涙を流す。あまりにも身勝手だが、しかし悪意はない。

 このように、罪なき者、無垢な人間とは、善悪の価値観を持たない人間のことを指す。決して善良な人間のことではない (善良な人間は、むしろ強い罪の意識を持ち生きる人間のことである。月並みな言い方をすれば、やさしい人とはやさしい嘘をつく人だ)。子供が無垢であり、無罪であるのは、彼らが善悪の価値観を持たないからだ。よって無垢なもの、無罪なものには、それ特有の残酷さがあるということになる。これは誠実さの問題にも言える。人が最初に嘘をつくのは自分に対してである。嘘のない人間、誠実な人間であるためには、まず自分に対して誠実である必要がある。一方で、自他の欲望がおのずと異なる以上、自分に誠実な人間とは、それだけ他人の期待を裏切りやすい者である。よって、誠実であるということは、それだけ自分勝手であるということ、傲慢であるということだ (言うまでもなく、無垢な人間とは誠実な人間でもあるわけだ) 。

 映画の終盤で、『イノセント』の主人公トゥリオ伯爵は自殺する。それは決して彼が自分の罪に耐えられなくなったからではない。むしろ自分の行動に耐えられる人間が何処にもいなくなったからだ。妻に去られ、愛人にも捨てられた。もはや人生の幕を引く以外の選択肢が見当たらない。

 一見すると、『台風クラブ』の健と『イノセント』のトゥリオ伯爵は正反対のように見える。しかし、彼らはどちらも無垢であって、また無垢であるが故に残酷であること、そのために他者との関係に問題が生じるという点では、あまり違いがないように見える。思い出されるのは、ドストエフスキーが『死の家の記録』で残した指摘である。彼によれば、大抵の犯罪者は自分の犯罪を後悔しない。『罪と罰』の主人公も同じで、彼は最後まで自分の何が間違っていたのかがわからないのである (だからヒロインに渡された聖書も開かないまま小説は終わる)。私の好きなラッパーのREAL-Tが残した逸話も参考になるかもしれない。傷害事件で逮捕された後、保釈された彼が書いた歌詞には次のようなものがある。「ギャング/あの時のこと/反省してない一ミリも」

 善悪の価値観は反省によって生まれる。善良な人間とは内省的なひとであり、それゆえ罪の意識を他より多く持つひとである。無垢なひととは、反省しない人間、あるいは反省できない人間のことだ。彼らの世界には他者が存在しない。苦しむ少女を見ても同情できず、嫌がる少女を見ても共感できないのは、彼が自分の気持ち以外を考えることができず、それゆえ他者の感情に注意が向かないからだ。否、他人の感情を客観的に認知することはできるが、それを自分の感情よりも優先することができないのである。何故なら、彼の世界には他者が存在しないからである。否、もしかするとそこには自分のすらも存在していないかもしれない。一切が主観であり、良識としての正しさより先に理屈が先行している。善悪の価値観よりもその理屈を信じられるかの問題がより強く人間を動かすのである。こうして『イノセント』のトゥリオ伯爵は妻を裏切り、ラッパーのREAL-Tは一般人の指を切り落とすこととなる。

 マーラーの音楽が美しいのは、それがあまりにも無垢であるからだ。そして、無垢であるが故に残酷であり、よって他者が存在しないこととなる。絢爛かつ耽美な音像世界は、細部まで徹底されており、それ自体ひとつの世界として完結している。それはまさに無人の城である。彼の音楽は他者の介在を許さない。そして、もはや彼の姿すらそこには見えない。世界を創りあげようとする以上、作者は既に背景に消えてしまっている。マーラーの音楽に没入する時、たとえそれがコンサートホールであろうとも、そこには自分以外の誰もいないのだ。誰ともこの感動を分かち合うことができない。どこまでも自閉的なその音楽は、聴き手にもまた自閉的であることを、他者の介在を排除することを強いる。それは『失われた時を求めて』の嫉妬深い語り手に似ている。彼はアルベルチーヌを監禁し、彼女を断罪するのである(「アルベルチーヌの先験的な有罪性」)。

 こうして無垢なものは悲劇的なものへと生成する。たとえ彼の世界に他者が存在せずとも、彼自身は他者と共に生きることを強いられる。丁度マーラーが指揮者として、あるいはアルマの夫として生きることが、作曲家として生きることと並行していたように。そしてアルマとの愛の苦悩は、マーラーが大伽藍を築くのをより一層強いることとなる。

 しかし、無人の城の外では歴史が唸り声をあげている。結晶の内部は腐敗し、水晶にはひびが入る。「遅すぎる」の嘆きがそこから漏れ出すのは、もはや避けがたいこととなるだろう。


 先日、書いた小説をブログに載せた。内容としては、タイトル通り無垢な人間を描きたいと思った次第である。書こうと思ったきっかけは幾つかあるが、一つとして、私の友人が「人を殺したい」というメッセージをよくグループLINEに送ることが挙げられる。それが「じゃあ実際に殺すとして、どうすれば捕まらずに殺せるか」ということを暇つぶしに考えるきっかけを与えてくれた。書いた内容で実際に殺せるかとは思わないが、その辺はフィクションなので大目に見て欲しい。

 本当はもっと長い小説になる予定だったが、流石に体力が持たないというか、そんなに長いものを書きたくないという気持ちがあったので、簡略的な内容となった。事実、小説を書くことには体力がいる。というか、書く上であんまり自分の向き合いたくない部分に向き合うことになるので、結構凹む。ちょっと病んでしまう。自分よりもっとよく小説を書く人で、日常生活と創作を両立させられている方がいるとすれば、私はその方を大いに尊敬する。自分には決してできない事だ。創作によって傷が癒えるなど有り得ない。むしろ創作することによって、人は忘れていた傷跡を蒸し返すことになる。私にはそう思えてならない。