22/04/09

「傷口を見せあう愚かさ/そこから生まれる言葉は」

 書くという行為にはある種の愚かさがある。読まれることを意識して書く以上、どんな言葉も対象を意識したものへと変形される。SNSのつぶやきが奇妙に映るのは、それが独り言であるにも関わらず、常に他者が念頭に置かれて語られるからだ。言い換えるならば、書くという行為には、それ自体演じる作用が含まれるというわけである。

 どれだけ誠実に見える態度でも、その裏には虚栄が潜んでいる。リルケの言葉を借りるならば「やっと告白が始まると思えば、もう嘘をついている」のだ。語る内容が個人的な、あるいは私的な内容になる程、それだけ役者めいた節が感じられる。そこにはまさに「傷口を見せあう愚かさ」がある。自分の感情を表現するということは、それだけ演技を強いられるのである。

 文章を書く上で、人は何処かでこの愚かさの問題と対峙しなければならない。

「情に欲かける乞食/物乞い/腹の足しになれば美徳も食う/哀れ/かけた情けむさぼる/飴に群がる蟻のごとく」

 先日、『おやすみプンプン』を初めてちゃんと読んだ。随分昔に立ち読みした際、その書き方が苦手で避けていた節がある。が、この世にこれを好む人が一定数いるのも事実である。無理解で物事を遠ざけるのはよくない。どうせ遠ざけるなら、まず理解してからでなければならない。

 まだ最後まで読んでない (八巻で止まっている) ので、感想を述べる資格もないかもしれないが、ひとまずそれを述べておこうと思う。今のところ、好きでもなければ嫌いでもない。人気の出る理由はわかる。物語は主人公プンプンとは異なる語り手によって進行される。しかし、その語り手はプンプンの内面しか描かない。よって読者は客観的な眼差しを保ちながら、同時にプンプンの主観を覗くこととなる。その主観を描くのが、あの特徴的な、サイケデリックな表現である。この過剰な表現が読者と物語を、読み手とプンプンの感情を同一視する装置として機能する。

 私の好きなボードレールの表現に「不幸に直面した人々が見せる過剰さ」というものがある。大なり小なり、不幸な人々は自分の不幸を誇張して語る。言い換えるならば、不幸な人々は、それが過剰に描かれるほど喜ぶ傾向にある。より感情移入のしやすい描写とは、可能な限り不幸を過剰に描いたものだ。これは『おやすみプンプン』だけでなく、『エヴァンゲリオン』などにも当てはまる内容だと思われる。過剰に演出することによって、観客と作品の境界線を曖昧にするのだ。

 この手法は、それだけ鑑賞者にカタルシスを与えるが、そのぶん危険も伴う。それは読み手が不幸に憧れるのを唆すからだ。「人生は観客を求める」とは、確かクンデラの言葉だと思ったが、彼は正しい。人は演じることを求め、しかもその演技が誰かに見られることを求める。不幸な物語に魅せられた人間は、それを自分の人生で再上演することを願う。それは不幸な方が何もない人間より特別に見えるからだ。要するに、説教臭い言い方をするならば、過剰に不幸を描く演出は、それが不健全だから危険なのである。

 そもそも、人は自分が思ってるほど不幸でもなければ幸福でもない。死ぬほど悲しいこともないが、かといって生きたいと思うほど楽しいこともない。けれども自殺するにはあまりにも期待を抱きすぎている。こうして大体の人はだらだらと自殺を延期する。人生とは期待と習慣の産物だから。ただつらいだけの人生なら、誰しもとっくに死んでいるだろう。それでは何のドラマも起きないはずだ。

 過剰な不幸の演出は、それ自体欺瞞を含んでいる。これは最近流行った『タコピーの原罪』にも言える。一応全話読んだし、二回ほど通読しているが、素直に称賛できないのが正直なところである。最近の漫画は家庭環境に原因を求めるものが多すぎる。別に人の性格が歪む原因は家庭だけでないだろう。むしろ学校が原因で性格を病む人の方が遥かに多い。

 月並みな言い方だが、学校は社会の縮図である。しかも、それは資本主義社会の縮図だ。成績が悪いとか、運動する能力が低いとか、身体的な特徴、あるいは挙動の癖とか、何事においても我々は他者と比較されることとなる。それが原因で見下されたり、いじめられたりすれば、誰でも性格がいじけるだろう。しかし、それを原因とするのは癪に障る。この際、身近で一番責めやすい人間は両親である、というわけだ。けれども、子供は成長するにつれて特有の自我を持つから、親子の仲が冷めていくのは必然である。子供の成長は親の期待を裏切ることから始まるから。

 さて、話が逸れてしまった。元に戻そう。先程「不幸な演出が含む欺瞞」を問題視したが、フィクションなんてどれも嘘なのだから、欺瞞がどうだと論ずること自体間違っているかもしれない。しかし、むしろフィクションだからこそ、欺瞞をなくすことが重要なのではないか。これは強度の問題である。フィクションが嘘であるからこそ、作者はより高い強度の嘘を発明しなければならない。そのためには、程度の低い嘘( = 欺瞞)を排除するべきだ。よって、これは愚かさの問題でもある。作品( ≒ 文章)を発表する上で、人はある程度愚かでいる必要があるが、しかし同時に、この愚かさと戦わなければならない。

 作品を発表するにはある程度の愚かさが必要とされる。たとえば文章を書いたとして、それを発表せず暗闇に留めるという選択肢もあるわけだ。それは小説/随筆だけでなく、学術書や音楽にだって言えることである。曲を書いたからと言って、それを発表しなくてもいいのである。どうせ公開したら後悔するし、読み返せば恥を感じる箇所が沢山あるに違いない。ならば初めから何もなかったことにするのだって出来るはずだ。どうして自分の低レベルな作品を、わざわざ人目に晒す必要があるのか?

 この愚かさの問題もまた、ひとつの大きな問題だと言えるだろう。

「布団の下、包丁忍ばす/雌猫色気狂い/ガキとカス/泣きじゃくる妹、震える肩/二人殺せるなら救えるかな/エスカレートするヒステリー/ママゴトより優しいキスでいい/子供は道連れ、ヒロインはママ/いいんだ、ぼく脇役だから/とめどない情念の涙/隣は泣き疲れ眠るモナリザ/大人には見えない世界/大人がいないと生きていけない……」

 美しい歌詞だ。何度慰められたか知らない。別に似たような経験をしたわけではないが、勝手に自分の子供時代を思い出す。『プンプン』や『タコピー』が好きな人も、これと似たような感動を覚えているのかもしれない。ならば、この曲とその二作の違いは何か。それは説明が希薄な点である。作家は何を書き足すかではなく、むしろどの文を削除するかを考えなければならない。説明とはある種の強調だから。説明的な要素を省くことは、解釈の幅を広げるだけでなく、強調を省くということ、過剰さを省くということに他ならない。

「どうせ作品を発表するのだから、世のため人のためになるものを出すべきだ」とは思わない。ただ、「発表しなくてもいいものを発表する」という愚かさが作品につきまとう以上、「何故書くのか」という問いは避けがたいものとして残り続ける。かつてドゥルーズは次のように書いた、「人は愛によってしか書かない。あらゆるエクリチュールは愛の手紙である」と。表現されるものは表現の外に存在しない。書かれることによって初めて気がつくこと、表現されることによって初めて可能になる世界線が世に存在する。それは丁度、不幸な物語を知った人がそれによって同じ不幸を求めるようになるのと同じである。鬼の歌詞を聴いて感動する私は、同じように誰かを感動させたいと願う。しかし、それは美味しいご飯が好きな人が同じく美味しいご飯を作れるようになりたいと願うのと一緒だ。そして、どうせなら誰かをそれで喜ばせたいのである。私の書く言葉は、どれも愛の手紙である。綺麗事かもしれないが、割と心の底からそれを信じている。

 

 『獄窓』は本当に美しいアルバムだ。歌詞もいいが、構成が素晴らしい。アップテンポに始まり、聴き手の気持ちを盛り上げようとするが、次第に楽曲は外部への不満を漏らしていく。一般性を外れた者の生きづらさ、社会への不満、そして政治への不満。だがそれも長く続かない。外部へと向けた批判は、結局自分の内面に向かうこととなる。いつもそうだ。外を責めるつもりであったが、気がつけば自分自身を責めていた。過去をたどり、傷跡をなぞり、記憶に苦しむ。彼は暗い自意識の檻から抜け出せない。

 ここにはベートーヴェンが『運命』や第九で示したのとは真逆の構成がある。喑がりから明るみに向かうのではなく、むしろ明るみから暗がりへと落下するのだ。楽曲は次第にテンポダウンしていき、外に向かう意識は内へと閉じていく。そして底の見えない暗闇から抜け出せない。