22/04/13

 高校生の頃、漫画の『惡の華』に強く胸を打たれていた。もう長らく読んでいないが、しかし場面の随所は今なお深く記憶に残っている。

 漫画は中学生編と高校生編に分けられる。前者において注目すべき点は、性転換したニーチェとも言うべき構図が機能していることだ。ニーチェテセウス - アリアドネ - ディオニュソスの三角関係を好んだのは有名である。アリアドネは英雄 (高位の人間) テセウスの妻であったが、誘惑の神ディオニュソスは彼女を奪い去り、それを自分の妻とする。ギリシア神話に見られるこの略奪の構図が、『惡の華』では性別が逆転した形で機能している。

 主人公春日は凡人の象徴である。平均以下の成績で、頭は良くないが、かといって運動ができるわけでもない。大抵の場合、こういう人間は趣味に逃げる。他が好きではないものに固執することで、自分が他とは違う、他より上の人間だと思いたがるのだ。周知の通り、他人が知らないことを知っているという事実は人を高ぶらせる。

 そんな春日が思いを寄せるのは、クラスのマドンナ的存在である佐伯である。可憐な容姿と優秀な成績を誇る佐伯は、一般性を代表する存在であり、テセウス的な「高位の人間」である。彼女はスクールカーストの頂点に位置する。

 冴えない少年がカースト上位の少女に惹かれる。これは共学制の中学校ではよくある話だと思われる。共学制は社会の縮図だ。資本主義社会では、中心軸としての男性が存在し、それに求められるものとしての女性が存在する。そこから更に、女性から品定めされるものとしての男性一般が規定されることとなる。これによって、次のことが指摘できる。つまり資本主義においては、男性が女性を商品化するが、同時に女性の眼差しは男性の優劣の基準となるのだ。クラスの女子から馬鹿にされることは、男子の間でいじめが起こるきっかけとなる。クラスの女子から人気があることは、他の男子より優れていることの証となる。こうして男子中学生は、必死になってワックスの使い方を覚え、眉毛を整えようとし、臭いくらいの量の香水を使うようになる。どれも女子から馬鹿にされないため、スクールカーストで生き残るためだ。

 上記の事実は、さらに次の指摘を可能にする。そう、カースト上位の女子生徒と付き合うことは、それ自体じぶんのカーストをランク上げすることに繋がるのである。春日が佐伯と結ばれるのを空想すること、それは彼が彼女を得ることでより高位の人間になることを望むからだ。春日の内には権力への意志が潜んでいる。そういう意味では、序盤の彼は一般的なラッパーと大差ない。ラッパーもまた「いい女」を抱くことで自分に価値があると思い込みたがるから。

 しかし春日の心をかき乱す存在が現れる。それがディオニュソス = 仲村である。彼女は一般性の外に、あるいはスクールカーストの最底辺に位置する。自由奔放な仲村の存在は、春日が資本主義的な価値観から抜け出すことのきっかけとなる。そして彼女は春日から佐伯を引き離すのである。

 ここにあるのはまさにテセウス - アリアドネ - ディオニュソスの関係である。「他の女達が二人の男の間にいるのと同じように、アリアドネもまたテセウスディオニュソスの間にいる」とはドゥルーズの言葉であるが、前述の通り、『惡の華』では男女の関係が逆になっている。アリアドネ = 春日は二人の女性の間で揺れている。一方には高位の人間テセウス = 佐伯がいて、もう一方には誘惑の神たるディオニュソス = 仲村がいる。そしてニーチェが示した通り、アリアドネテセウスの妻になるが、しかしディオニュソスによって略奪されるのである。

 暴力的なディオニュソスは、みずからを肯定してくれるアリアドネに出会うことで「肯定の肯定」を得る。以前より自分の正しさを確信していた仲村は、それを認めてくれる春日に出会うことで更に暴力的になる。こうして二人は、ふたりだけの世界に耽ける。それはボードレールのごとき退廃の世界である。好んで悪事を働くのは、他人の不幸が彼らの喜びの供養になるからだ。「関心や受容能力を失わせる憂鬱に慣れ親しんでいる」以上、もはや二人以外の何も見えないのである。

 それでもこの閉じた世界は終わりを迎える。そして、ここがニーチェの解釈した神話との唯一の違いである。仲村は春日を捨てたのだ。ディオニュソスアリアドネを捨てることなど決してなかった。しかし『惡の華』においては、ディオニュソスによるアリアドネとの訣別があるのだ。自分を認めてくれるもの、自分と同じ考えを持つものに出会えたと思った仲村は、だからこそ春日を愛していた。しかしやがて、春日が自分と同じものを見ていないということに気がついた。心中を決意した晩、仲村は春日を突き放す。彼には自分とは別の生き方ができると知っていたから、彼女無しでも生きられると知っていたから。彼を突き放したことは、彼女なりの優しさだと言える。


 こうして物語は高校生編を迎える。個人的には中学生編より高校生編の方が遥かに好きだ。鍵を握るのは常磐という新たな女性である。中学生編と同様、高校生編の主人公も春日であるが、しかしそれはかりそめに過ぎない。我々はまさに春日の眼差しを通しながら、常磐が真の主人公だと知るのである。

 佐伯と同様、常磐スクールカーストの上位に位置する女性として描かれる。モデルのように美しい体型、人形のように端正な顔をして、放課後には友達と夜まで遊ぶ。時にはそのまま寝泊まりして、友達の家から学校に向かうこともある。他校の先輩と付き合っていて、同性からは羨望の的、異性からは憧れの的となっている。

 しかし彼女には決して他には口にしたことの無い趣味があった。彼女は本を読むのである。これまで沢山の本を読んできた。とりわけ長大な推理小説を好んだ。そして将来の夢は作家になることであった。ならば何故それを誰にも打ち明けないのか?きっと誰も理解しないから、誰にも受け入れられないからだ。難解そうな本をクラスで開いても、友達から馬鹿にされて終わりである。もしかするとカースト上位の地位を失うかもしれない。ならば最初から何も読まないふりをした方がいい。

 そんな彼女の前にひとりの青年が現れる。本屋でボードレールの『悪の華』を手に取ると、同じ学年の、ほとんど口を聞いた事のない春日が話しかけてきたのである。試しに彼女は彼に二冊の長編小説を貸してみることにする。すると、なんと彼は一日でそれを読んできた。しかも「すごく面白かった」と褒めてくれる。自分の好きなものが認められると、なにか自分の存在まで認められた気がして嬉しいものだ。常磐はこの謎の青年に心惹かれることとなる。

 やがて誰も呼んだことのない自宅に彼を呼び、散々努力して集めた本の数々を彼に見られる。顔を赤くする春日と常磐。更に彼女は、自分の考えた小説の原案をも教える。彼は涙を流す。すごい、感動した、ぜひ書いて欲しい。彼女は彼の手を取り、言う。「絶対に書く」と。

 人生は観客を求める。ある人は不特定多数の誰かに見られることを願い、またある人はたったひとり誰かに見つめられることを願う。彼女が求めたのは、まさにたった一人の理解者に本当の自分 (あるいは本当だと思いたい自分) を見てもらうことであった。

 思えば常磐アリアドネ的である。高位の人間、テセウス的な他校の先輩 (運動神経の良さそうな好青年) と付き合い、友人に恵まれ、華やかな高校生活を送っている。否、傍から見ればそう思える。しかし、その心はどこまでも空虚である。彼女は自分の小説で描こうとした幽霊そのものなのだ。実態を持たず、孤独に現世を彷徨う幽霊そのものである。誰にも見せない顔があり、それを隠して生き、いつも周りに流されて生きてきた。だから同じ読書の趣味があり、一般性から外れているように見える春日に惹かれる。

 しかし春日はディオニュソスではない。彼もまたアリアドネなのである。しかしこの場合、もはや春日にはテセウスディオニュソスもいない。彼は既に終わった過去と出口のない未来の間で引き裂かれているのである。

 街中で偶然にも佐伯と再会した後、春日は佐伯と二人で話す時間をもうける。お互い元々住んでいた街から引っ越したから、二度と会うまいと思っていたはずだ。しかし会った。そして話した。佐伯から責められた。いま仲良くている女性は仲村の代わりではないこと、自分は彼女の小説を読みたいのだということ、それを語ったが、しかし笑われた。そして言われた、「結局お前は依存する対象が欲しいのだ」と。彼はそれを否定できない。結果として、いつまでも常磐に対して一歩踏み出すことができない。くすぶったままだ。

 何も解決せずクリスマスイブを迎えてしまった。また適当な言葉を並べて常磐に連絡しようとするが、何を言っても嘘になる気がする。どうすればいいのだろう。頭を抱えながら夜道をひとり歩く。そして自分の影を見つめる。その時である。彼は不意に気づいたのだ。彼女もまた、自分と同じように空っぽで、過去と未来の間で引き裂かれているのだと。彼は彼女と同じ幽霊なのだ。受肉を求めて彷徨っているのだ。生きた心地を求めて、本当だと信じたい自分を見つめられることを願い求め彷徨っているのだ。

 しかし、いつまでも幽霊のまま生きることなどできないはずだ。

 夜道を走り出した。向かうは常磐のバイト先である。彼は彼女に思いの丈を語る。君が好きだ。僕が君の幽霊を殺す。一緒に降りよう、この線路から……。涙を流す常磐。そして彼の手を取った。報われたのである。二人の幽霊は出会い、結ばれることで実態を手に入れた。空想の世界から、無人の城から抜け出して、現実を生きることが可能になった。傷付いたふたりの人間が、互いの傷に惹かれながら、最後にはその傷を癒すのである。その様はベルイマンが残したセリフ、「夫婦とは臆病なふたりの子供が寄り添い合うようなものだ」を思い起こさせる。これほど前向きで、美しい展開はない。


 今読み返すとだいぶ恥ずかしいというか、セリフがクサくて読めないところも多いと思う。それでも、『惡の華』は私の青春だった。丁度今日のように、また各シーンを思い出す日が来るだろう。