日記

大体四日に一度の頻度で更新してる

22/04/24

 哲学は人生論ではない。哲学を「人生の問題」に片付けてしまっている人の意見は、大抵つまんないというか、興味が持てない。なるほど多くの人は、「人生の答え」とも言うべきものを求めて哲学の門を叩く。しかし、この「答えが知りたい」という態度ほどナルシスティックで馬鹿らしいものはない。生活上の問題に適当な解決が欲しいなら宗教にでも頼ればいい。悩む自分の姿が可愛いならよそでやれという話である。

 ドゥルーズ哲学の魅力、それはあまりにも鮮やかな論理展開にある。彼の著作を読むことは大伽藍の内部を覗くに等しい。読者は洞窟を探検するがごとく、そこに隠れた壁画の一つ一つを照らし出すこととなる。そして見出されるのは息をのむほど美しい思考の芸術である。それこそドゥルーズを語る上で最も見逃されている点だ。彼の哲学の最大の美点は、哲学から説教臭さや道徳臭さ、自己啓発本的な要素を抜いたことにある。「人間、どう生きるべきか」みたいな余計なお節介は、ドゥルーズを論じる上で一番必要のないものだ。

 とは語ったものの、最近は全くドゥルーズを読んでいない。一応去年で彼の著作を (邦訳ではあるものの) 全部読んでしまったため、読む気が起きなくなってしまった。翻訳の問題を含めて、彼の哲学を理解出来たとは決して言えないだろう。ただ、哲学書は一応理論書である。再読は中々捗らない。結果として、もう一ヶ月近く彼の本を読んでいない。随所に書いてある内容を思い出し、開くことはある。しかし、もう以前のように読むことはできないかもしれない。

 一方で、距離が生まれたことでドゥルーズ哲学の問題点が明瞭になってきた気がする。それについても書きたいが、今はその気力もない。いつか改めて触れるとして、今はただ、彼の超越論的経験論について考えている些事を書くに留めよう。

 プルーストにおいては、嫉妬が思考のカテゴリーとなっている。『失われた時を求めて』の語り手は、嫉妬のために思考するというよりか、むしろ思考のために嫉妬を必要とする。ドゥルーズプルーストから影響を受けたのは、その小説の特徴とされる無意志的記憶 (想起されるがままに導かれる記憶と意志) ではなく、登場人物を駆り立てる嫉妬のモチーフである。恋人への嫉妬は普段こちらが考えないことを考えるよう促す。そして探偵あるいはスパイのような思考能力を獲得する。こうして好んで嫉妬を駆り立てるような場に身を置く人が世には一定数いる。

 同じ内容はキェルケゴールにも言える。何かこちらに不安を覚えさせるものが登場した際、人はそれに目を向けざるを得ない。不安を覚える意識は、既存の認識に還元できないものがあるからこそ不安に苛まれる。よってキェルケゴールにおいては、罪が新しい質の出現として考えられる。そして不安の概念は、一つの思考のカテゴリーとして機能する。胸を裂かれながらも暴力的な美の啓示に惹かれるように、不安を覚えながらも罪に注視しなければならない。プルーストが嫉妬を意志したならば、キェルケゴールは不安を、罪を意志したこととなる。

(ドゥルーズマゾヒズムに関心を寄せた理由もここから憶測される。人が快楽を覚えるのは緊張から開放された時である。言い換えれば、新しい快楽を可能にするには拘束が必要である。緊張あるいは拘束は、快楽を発生させる超越論的な原理として機能している。快楽は欲望を解消するが、拘束の宙吊り状態が長引けば、欲望は益々肥大化する。マゾヒズムにおいては、欲望を禁止するはずの罰が、むしろ欲望を可能にするものとして機能している。マゾヒストは好んで宙吊り状態に入ることで、自らの欲望に酔うのである。)

『差異と反復』で示した超越論的経験論は、ここから否定的あるいは宗教的な要素を取り除いた先にある。嫉妬あるいは不安の概念は、「死の本能」という精神分析の用語に置き換えられる。彼自身が書き残している通り、「一つの語はいつでも別の語に置き換えることができる。もしその語が気に入らず、相応しくないと思えば、別の語を持ってきてそこに置けばいい」のである。


 我々は自分が直面するものに応じて態度を変える。「幸せになりたい」と語る人の多くは、本心からそれを求めない。もし手を差し伸べる誰かが現れても、それを軽蔑して終わるだろう。安っぽい平穏より高貴な苦悩の方が好ましいのである。

 人は自分に好ましい舞台を求める。演じたい役があり、それに拍手を送る観客を求めている。立ちはだかる苦難に臆せず、「幸福になりたい」や「救いが欲しい」と語る人間のドラマは、一見すると美しく、面白みがあるように思える。しかし、冷静に考えれば安っぽいというか、寒い。「もう何度も観たよ、そういうの」が正直な感想である。「幸せになりたい」と語る人の本心は、まさにそう語れる自分の欲望に酔っている点にある。


"ヒュームは、信念という概念を提起し、それを認識〔絶対的知識〕の代わりに用いた。彼は、認識をひとつの正当な信念〔信仰〕とすることによって、信念〔信仰〕という概念から宗教色を取り除いた。ある信念はどのような条件で合法的あろうかと、彼は尋ね、そうすることによって、見込み〔蓋然的知識〕に関する理論の全休を素描した。"

 哲学は人生論ではないが、他の芸術や科学と同様、経験の批判的な検証が必要とされる。ドゥルーズの語るヒュームにおいて、信念と思考は同一である。考えるためにはその前提となるものが正しいと信じる必要がある。信じることはそれ自体選択である。何を信じるか。いかなる信念を選択するか。それは思考を開始する上で必要不可欠である。そして信じるものの選択を間違えれば、机上の空論と大差がなくなってしまう。