日記

大体四日に一度の頻度で更新してる

22/04/28

"アントニオーニが言うように、もし我々がエロスを病んでいるというのなら、それはエロスそれ自身が病んでいるからである。それが病んでいるのは単にその内容において老化し、消耗してしまったからではなく、既に終わった過去と出口のない未来の間で引き裂かれる、一つの時間の純粋な形態の中に囚われているからである。"

「善く生きるためには教養が必要だ」と、一般に考えられている。芸術、哲学、科学など、人間の文化的な産物は、より素晴らしい人生のための準備であり、それを知ることで人は以前より豊かに生きられる、というわけだ。無論、そんなわけがない。「豊かな一生」を送りたいなら、今すぐ本を閉じて、友達と遊び、家庭を持ち、社会貢献でも果たすべきだろう。どの分野であろうとも、傑作と呼ばれるものは、ある程度人生を犠牲にした上でしか成り立たない (よって芸術、哲学、科学は、多少なりとも生活を営む上で害のあるもの、不道徳なものだと考えていい)。『失われた時を求めて』でも、「より優れた生活のための準備 」として学術に触れる者は、しょうもない人間として揶揄される。むしろプルーストにとって、芸術こそ我々が他人に虚しく期待したものを与えてくれる存在であった。

 確かに生活上で何らかの経験を積まないと、何も生まれないかもしれない。しかし、何でもかんでも経験すればいいという話ではない。むしろ世の中には、しなくてもいい経験というのが沢山ある。少なくとも私には、思い返して「経験しなければよかった」と考えるものが幾つかある。

 それに、何かを経験したところで、それを批判的に検討できる思考がなければ、馬鹿の一つ覚えのように同じ言動を繰り返して終わりである。経験には錯覚が付き物だ。真に独創的な発想は、経験に基づきながらも、同時に経験を乗り越えた先にしか存在しないのだ。

 悲しむべきことに、私はよく実年齢より老けて見られる。良く言えば落ち着いている、しかし悪く言えば活気がないのである。だからだろう、そんなに大した経験を積んでないのに、経験豊富な人間だと誤解されることが多い。実際はそんなこともないのに。むしろ、私は他より遥かに人生経験の浅い人間だと思われる。そして、それをそんなに悪いと思っていない。一つの経験を肯定するためには、それ相応のいい想いをしなければならないから。でなければ、いつまでもその経験を恨んで終わりだろう。

 避けてきた経験とも言うべきものがある。時には後悔することもあるだろう。ただ、普段からそれを口にするわけではない。見栄が邪魔するのだ。昔から、「かっこいい人間」として扱われることに憧れがある。心と生活に余裕があって、自由にそして快活に振る舞い、人望に厚く、だが多少影のある人間。そう、『グレート・ギャツビー』や『アビエイター』など、度々レオナルド・ディカプリオが演じる野心家たちに当てはまる人物像だ。ハンサムで人当たりもいいが、いつも悪い噂に絶えないのである。もとい、今でもその手のタイプの人間に憧れがある。

 決して欲の限りを尽くしたいのではない。むしろ性欲や物欲は人より少ない方だと思われる。それでも、自分が強い人間だということを他人に知らしめたい。自分の権力を誇示したいのだ。それは決して欲深く、理性のない人間にあてはまる特性ではない。むしろある観点からすれば禁欲的で、高い知能を備えた者に見受けられる。彼らは自分が強者であることの証明のために、金銭を、異性を、豊かな物質的生活を求めるのだ。

 私自身がその手の人間なわけではない。ただ一方で、その気持ちは大いにわかる。上のような人物像に憧れる以上、自分にもやはり権力欲が備わっているから。権力欲、それは単に高い社会的地位を獲得することを目的とするのではない。人は自分の生きる環境に応じて、それぞれ異なった形で権力欲を満たそうとする。ある者は仕事に没頭し、ある者は趣味や研究に命をかけ、またある者は恋人や家族に固執し、あるいは自身の社交上の付き合いを広く持とうとする。そうして自分が他より優れていることを、他より能力や財産に恵まれていることを証明しようとするのだ (美しい恋人や優れた友人がいることは、多くの人にとって高価なブランドの服や外国製の車を持つことと同じである。自分を一途に想ってくれる者がいることは、それだけで他よりも強い力を持つことの表れとなる) 。

 とにかく、大した経験もないくせに、私は人一倍この権力欲の疼きに敏感である。結果として、今のような見栄っ張りな人間になってしまった。だから経験したふりをすることも多い。知ったかぶりだってする。 もっとも、それは会話する時に気まずいからでもある。向こうが「知ってるだろうな」という前提で語りかけるので、それを裏切り、話の鼻を折るのが申し訳ないのである。

 しかし、やはり後悔を覚えることがある。そう、丁度今のように。確かに権力欲に敏感であったために、傍からすれば多少なりとも魅力的な、優れた人間に見えることがあったかもしれない。時には経験してない経験までも空想されて、「きっとあんなことやこんなこともしてるんだろう」と語られているのだろう。無論、それも大歓迎だ。自分がより強い人間に、優れた人間に見られることは、実際嬉しいことだから。

 しかし、そのために自分が本当に欲しいものが手に入らないのであるとすれば、こんなに馬鹿らしい話はないではないか 。見栄と自尊心が築いた城壁のために、手の届かない場所があり、そのために苦しんでいるのだとすれば。垣間見た世界線の続きが知りたいのに、それが出来ずにもがいているのだとすれば。私は自分の愚かさを後悔する。しかし、こんな風に生きる以外にどうすればいいかわからなかったのである。

 あるラッパーの歌詞に「神だか何だか目に見えねぇが/死ぬほど苦しんだら幸を与えてくれ」というものがある。我々は他人の苦しみには無関心だが、自分の苦しみには異様に敏感だ。もし他人の苦しみが関心を引くとすれば、それが自分の苦しみと共鳴するからだ。すべて自業自得なのはわかっている。しかし、心の何処かでこんな自分を可哀想だとも思っている (実に情けない話だが) 。私は十分に苦しんだ。その分、報われてもいいはずだ。何も大層なものが欲しいとは思わない。幸福になりたいとも言わない。ただ、ささやかな瞬間の積み重ねが、この胸に募った後悔を晴らすきっかけが欲しいのだ。傍からすればちゃらんぽらんに見えるかもしれない。それでも、自分なりに努力して生きてきたつもりだ。それが多少なりとも報われてもいいはずだ。なのに、何故それが手に入らないのか。

"アントニオーニが偉大な色彩画家であるとすれば、彼がいつも世界の色彩を信じ、色彩を創造し、我々の頭脳的認識のすべてを革新する可能性を信じてきたからである。彼は、世界における伝達不可能性を嘆く作家ではない。ただ世界は壮麗な色彩で描かれているが、世界に住まう身体は、まだ無味乾燥で、無色なのである。世界はそこに住まう人々を待っているが、彼らはまだ神経症の中に自己を見失ったままでいる。しかし、だからこそ身体に注意を向け、その疲労神経症を観察し、そこから色調を取り出さなければならない。アントニオーニの作品の一貫性とは、身体 - 人物が、自分の倦怠や過去に直面し、頭脳 - 色彩が、未来のあらゆる潜在性に直面するという点である。しかし二つはただ一つの同じ世界、我々の世界を構成し、その希望と絶望を構成しているのである。

 人は予期せぬものとして与えられた場合にしか幸福を認知しない。ある程度頭で思い描いていたものが与えられても、想像と現実の些細な違いが気になり、それに心から満足を覚えられないだろう。どんな場合であれ、幸福とは意表を突かれる形でしか与えられないのである。

 言い換えれば、私は他人を幸福にすることは出来るが、自分を幸福にすることは出来ないのである。確かに本や音楽に触れて感動することは多い。しかし、それもやはり対象から与えられているのである。私は誰かを幸福にしたい。だから、誰かに幸福にして欲しい。矛盾しているように見えるかもしれない。何故なら、冒頭で「芸術と生活上の幸福は相容れない」と断じたからだ。しかし、欲張りでもいいではないか。私は報われたいのだ。他の人が望んでいるものを、自分だけ望んではならないなんて法はないはずだ。

 私は今日まで、喜び以外の何も求めなかった。自分が何かを求めるとすれば、それがなければ不幸になるからだ。今、私は実に不幸だ。私を幸せにして欲しい。これは、長年に渡る切な願いである。