日記

大体四日に一度の頻度で更新してる

22/05/06

 ドゥルーズは本を道具箱として利用することを推奨する。この発想はプルーストに由来する。本とは望遠鏡のレンズのようなもので、読者はそれを通して世界を覗く。もしピントが合わなければ、別の本を開けばいい。それが彼らの考えである。一方で、ドゥルーズプルーストも、共に生活のために芸術や哲学があることを一貫して否定していた。生活と創作は一致しない。ある程度の生活上の快楽を犠牲にしなければ、それ相応の独創性を獲得できないからだ。

 果たして彼らの意見は矛盾しているのか。恐らくそうではない。むしろ両者は、ある観点を徹底することでその外に出ることが可能になると考えているのではないか。ドゥルーズは哲学を徹底することによって哲学の外に出ることが可能になると考えた。その意味において、現代哲学が芸術や自然科学から影響を受けたように、哲学もまた芸術と科学に影響を与えることが可能である。プルーストも同様であったはずだ。一つの書物が「道具」として機能するのは、まさにそれが作品として徹底された完成度を誇る時のみだ。科学者達は、表向きには「世のため人のため」に研究を重ねたと語るかもしれない。しかし、実際は自分の興味を徹底した末、世のためになる研究成果を得られたに過ぎないはずだ。哲学や芸術も同じである。それが誰かの役に立つ、あるいは道徳的に導くことはない。しかし、作者の持つ観点を徹底したが故に、読者の眼差しをより明瞭にするレンズを発明することはできるはずだ。作品は、まさに作品の持つ固有性を徹底することで、作品の外に訴えかけることが可能となる。

 本を読む際、読者はその裏に潜む作者の顔を想像する。病的な心理を描く作家は、同じように病的な性格をしていると期待される。無理もない。話し言葉と同じで、文体はある程度の個人の特徴が反映されたものである。文筆する上で、人はたった一つの文字がその文全体の調子を狂わせてしまうことに気がつくこととなる。いかなる単語を選ぶかによっても、文章の気品は異なる。文末を「である」か「なのだ」のどちらで選ぶかによって印象も変る。

 句読点を何処に置くかも重要だ。「、」の位置は、音読する上で何処で休符を置くかに関わる。句読点の配置が特徴的ならば、その文章は音声にした際の響きが特徴的となる。また、句読点の配置は文章の整合性にも関わってくる。「正確」な配置は、それだけ文体の論理性を際立たせることになるはずだ。行替えについても似たようなことが言える。見過ごされがちだが、人により感情的に訴えかける文章は、行替えをほとんどしない文章である。塊となった文体は、それだけより直接的にこちらの心理に訴えかける。読み手は冷静にそれを読むというより、むしろ文章の「圧」に強いられるよう、つい感情的にページをめくってしまう (ドストエフスキーがいい例だ) 。

 ここまで来れば、作者に固有の文体を持つことが、それ自体作者のこだわりのあらわれとなることが、誰の目にも明らかとなる。よって、文章を書くことは「演出」の問題と切り離せない。文筆するとはある種の印象操作である。どんな書き手も、読み手にいかなる印象を与えるかを考慮せずに書くことなど出来ない。もっとも、これは文学だけの話ではない。音楽にせよ映画にせよ、演出は芸術作品と切り離せない技法である。あらゆる芸術は特定のイメージを鑑賞者に喚起させることを目的とするからだ。独創的な芸術、傑出した作品は、他が今日まで与えてくれなかった印象をこちらに与えてくれる。優れた芸術は、それまで感覚不可能だったものを感覚可能にする。

 にも関わらず、文学は他の芸術よりも演出の、あるいは演技の問題がついてまわるものだ。ある人の言葉は、彼に固有の記憶と切り離しがたいものである。我々は言語に基づかなければ思考を重ねることが出来ない。ある概念を知っているからこそ可能になる思考がある。同様にして、知らないからこそ語ることのできる事柄がある。ニーチェも指摘していた通り、我々の思考は、我々が普段用いる言語と密接な関係にある。人は何らかのイメージに基づいて思考を発展させるが、イメージはそれらを表現する言語と切り離せない。丁度ロシアの名前を聞いた際に「寒い」や「戦争」を思い浮かべるのと同じように。

 それが何故、個人の記憶に関わってくるのか?他ならない、言語が個人の思考と切り離せない以上、「書く」という行為は他の創作活動よりも遥かに個人が前に出やすいのである。音楽を創作する上でも、ピアノ独奏曲と弾き語りでは天と地ほどの差がある。言葉で表現されたものの方が遥かに親しみを持ちやすい。「演技」という言葉を聞くと、自ずと映画のことが思い浮かぶ。しかし、ある意味では映画の方が文学より遥かに演出の問題が少ない。言語を用いて「書く」とは、他のどの創造行為よりも個人のコントロールが可能となる。「書くこと」で完結する分野は、他のどの芸術よりも個人が反映されやすいのだ。その点、映画は決して独りでは製作しないため、自ずと個人が薄れていく。

 しかし、一体それの何が問題なのか。何故、こんなにも大それた言い回しをする必要があるのか。それこそ作者の誠実さを問われる点であるからだ。一体、作者は何故「書く」のか。何のために書くのか。わざわざ自己演出をしてまで、文章を書き、発表する必要があるのか。我々はこの問いを今こそ発さなければならない。

 もし書き手が誠実であることを求めるならば、彼は読み手を突き放さなければならない。自己演出をして、より他人に愛されるために物を書くことは、確かに一つの立派な動機だと言える。しかし、それで生まれた文章の大体はつまらない。既にSNSの時代が来て久しい。Twitterでは何もしないが声だけデカい人間がもてはやされる。しかし、百年後にも読み継がれる文章は、目先の承認を求めるのではなく、ただ黙々と自分の仕事に励んだ者だけが書けるものだ。

 説明を試みるのではなく、むしろ自らの内に閉じた文章の方が遥かに誠実である。語弊を恐れずに書くならば、その方が読み手を誤解させないからだ。前述の通り、「書く」という行為は個人の記憶と切り離せない。しかし、そのために人はよく次のことを忘れてしまう。つまり、作者と作品は同一ではないということだ。繊細な文体を持った作家だからといって、実際の性格も繊細だとは限らない。文学の一番の問題は、それが他の芸術よりも作者自身への注目に繋がることにある。ミケランジェロの彫刻を見てこの造形美術の天才の性格を知ろうとする人は少ないが、三島由紀夫の本を読んで彼の出自を知ろうとする者は多い。ベートーヴェン交響曲を聴いて作曲家に親近感を覚えるよりも、シンガーソングライターの歌詞から歌い手の人物像を空想する人の方が遥かに多い。文学の、もとい「言葉」の一番の問題は、他の芸術よりもそれが作者の面影を排除しづらい点にある。

 読み手に開かれた文章は、そのぶん読者を突き放す必要がある。文学はそれを「非人称」という形式によって実現した。一人称の語り手が主体となる文学は世に多く存在するが(「あの頃、私はこうだった……」といった作風)、一方で非人称の場合は絶えず読み手との間に距離が置かれる (「あの頃、彼はこうだった……」) 。語り手が一人称の場合、より直接的に作品への感情移入が可能になるかもしれないが、しかし非人称の場合、間接的であるが故の「冷たさ」が文学に導入されることとなる。あるいは一人称の語り手が主役でも、そこに実際の私とは異なる虚構の「私」を導入した場合、それが一つの冷たさとして機能する。ここには実に奇妙な構図がある。作家は読み手の胸に訴えかけることを求めながら、同時に読み手を突き放す冷たさを持たなければならないのである。

 しかし、何故ここまで「書くこと」の問題にこだわるのか。何故「冷たさ」に固執するのか。無論、その方が強度があるからだ。文学を愛しているなら、より美しい文章を生み出したいとは誰もが思うはずだ。そして、より美しい文章とは、より嘘のない、誠実な文章である。後世に残るもの、より強く人の心に訴えかけるものが、より強度のある文章だとするならば、興醒めするような大根役者を演じるのではなく、たとえ読者を突き放してでも内に閉じた文章を書くべきだ。それこそ人を感動させる、より人の心を突き動かす文章である。何故なら、そこにはその場しのぎの嘘 (程度の低い嘘) が介在しないからだ。もし誠実であることを求めるならば、我々は先ず自分自身に対して誠実でなければならない。個人的な感情、個人の記憶を乗り越えた先にこそ、作者を排除した先にこそ、彼が描くべき何かがある。

 創作は感情表現ではない。むしろ、芸術は感情を生み出す。音楽に感動した際、それまで感じたことのない思いに駆られる。芸術は感情の動きを描き、生み出すものではあれど、それを打ち明けるものではない。むしろ、より精緻な感覚の描写、新しい感情の発見をしたいならば、作者は極力個人の感情を排して冷静になる必要がある。一つの文章を読むことで、初めて言い表せるようになる感情がある。我々は自分の外部にあるものに出会わなければ、自分の感情を知ることができない。ならば文章を書くことは、誰かのために書くこと他ならない。自分の言葉を持たない者のために書くこと、それこそが「書くこと」の意味である。恐らく、それは音楽にも映画にもなし得ないことだ。個人の記憶と、思考と密接に関わっている言語の芸術だからこそ、それは可能になるのである。

 綺麗事に聞こえるかもしれないが、私はやはり「利他的な芸術」の存在を信じている。ドゥルーズは「誰かのために書くこと」の大切さを説いた。同感だ。自分のために書くなんて馬鹿らしい。どうせ人目に晒すのならば、我々は誰かのために書かなければならない。それは何も文学や音楽だけでなく、哲学や科学にしても同じはずだ。最も利他的な行為の成立とは、自分に固有のものを徹底した先にしか、自閉を徹底した先にしか生まれないのではないか。


 皮肉の面白さは万引きに似ている。良識的にはあまりにも大胆な、危険に聞こえることを言ってしまうことにこそ、皮肉の面白さがあるからだ。他人の口にした皮肉に笑うことは、禁忌を犯すことと同じ楽しさがある。だから皮肉は万引きに近い。万引きをする中学生もまた、良識的には「してはならぬこと」をするのに喜びを覚えるのだから。

 怒って仰々しいことを言う人も同じで、普段言わないことを口にできるのが楽しくて仕方ないのだ。だからよく怒る人は、実際は怒りながら大胆なことを言える自分にご満悦なわけである。