日記

大体四日に一度の頻度で更新してる

22/05/14

 本や音楽は危険だ。感動は枯渇した精神を潤すが、同時に人を死に近づける。「芸術は人を幸福にすると同時に老けさせる」とは、トーマス・マンの言葉である。刺激は麻薬だ。一つの刺激に慣れると、それ以下のものに退屈を覚え始める。胸を揺さぶる読書体験をした人は、以前には興じることのできたものを冷めた目で眺めるようになる。美しい音楽に心を奪われた人は、普段なら楽しめるはずの遊びを空虚に思うこととなる。感動はそれまでの自己同一性を喪失させるのである。

 芸術はよく逃避の手段として用いられる。愛好家たちは、麻酔に打たれるかのような官能を求めて作品に触れる。痺れる感覚、苦痛が薄れ、意識が遠のいていく。全身を小刻みに震わせながら、内から溢れる快楽の洪水に身を委ねる。それに静かに溺れる。ああ、美しい。何度ため息を漏らしながらそう呟いたか知らない。私は今でも、自分を深く感動させた作品たちとの出会いを、その際の光景を覚えている。その時の場所を、空気を、匂いを、そして眼前に広がったものを。

 しかし、陶酔を求めて芸術に触れるのは危険でもある。それは現実の問題を容認することに繋がりうるからだ。「苦しい現状から救いを求めて作品に触れる」とは、いつからかよくよく見られるようになった定型句である。事実、社会において芸術が有用だとされるのは、それが生活の息苦しさにささやかな喜びを与えてくれるからだ。しかし、本当にそれでいいのだろうか。「毒薬のごとき音楽の告白に溺れる」とはリルケの表現である。作品から溢れる快楽に溺れ、それをむさぼり、現実から逃れる。その行為自体はなんの罪も無いかもしれない。しかし、その先にあるのは間接的に現実の問題をよしとすること、それをなあなあに誤魔化すことに他ならないのではないか。確かに、時には休息や逃走も必要だ。しかし、傷ついた人は癒えるほど再び傷つくことを恐れるようになる。芸術は癒しだが、治癒されるほど現実に対して消極的になるのならば、それは害悪とも言えるのではないか。

 本来、芸術はある程度裕福な人々のものである。ある観点からすれば、芸術は常に政治に屈服してきた。西洋の作曲家たちは、元々宮廷なり教会なりに身分を保護してもらう形で生活をしていた。ベートーヴェンから作曲家の自立が始まったが、それでも彼を支持する貴族等の後ろ盾は存在した。パトロンの庇護のもと生活していたミケランジェロは、政治的な革命が起こると真っ先に体制を打ち倒そうとした。しかし反乱は鎮圧され、結局彼はみずからが打ち倒そうとした体制の庇護下で、屈辱に苛まれながらパトロンの墓を制作することとなる。芸術は、才能か資産のどちらかが恵まれた (あるいはそのどちらにも恵まれた) 人間のためのものである。そして、それは既存のものに何らかの形で服従することを強いられる。独創的なもの、斬新なものは、既存のものの仮面を被りながら生き残るしかない。ドゥルーズはそれを指摘した。そして彼は「マイノリティへの生成変化」について説いたが、それを理解するにはある程度の教養が必要とされる。実際の「マイノリティ」は教養を身につける余裕もないのではないか。これもまた一つの社会問題である。知識を形成するにはある程度の余暇と環境が必要とされるが、その二つはマジョリティにだけ恵まれたものである。旧来的な芸術を是認することは、何処かで現実の搾取に加担することと同義ではないか。

 我々は政治について考え、時に議論する。しかし、それは我々が「選ばれた人間」だからに他ならない。インテリどもは小難しい概念をこねくり回して「きたるべき政治」を説くが、それで実際の社会が変わるのは稀である。この問題についてはまた後日詳しく書きたいが、それは恐らく非常に長く複雑な話になるからだ。しかし、それを数節で要約するなら次のようになる。今日まで色んな場所に出入りしてきたつもりだ。そして気づいたのは、いくらインテリが内輪で盛り上がっても、それはただお互いを気持ちよくしているだけだということだ。彼らもまた、形は違えど知識を駄菓子のように貪り、その甘ったるさに満足を覚えているのだ。

 いかにして政治性を獲得するか。これは実に重要な問題だ。我々は政治的でなければならないからだ。作品に逃れる/溺れることは決して悪いことではない。というより、自分もそれをしているから批判できない。そして、逃れるため/溺れるための作品を生み出すことも悪いとは思わない。ただ、それはこちらの目を覆い、時に現実の問題の解決を先延ばしにする。それに後ろめたさを覚えるのは当然のことと思える。私自身の話をすれば、決して裕福な生活を送っているわけではない。高卒のワープアで、むしろ貧苦に喘いでいるとすら言えるかもしれない。しかし何故かそれを改善しようとしない。決して今の生活に満足しているわけではない。むしろ、本や音楽の与える陶酔に閉じこもるあまり、現実に働きかける積極性を失っていることだ。無感覚にして無感動、無気力な人間が誕生した。このままではいけないとわかっている。しかし、自分はあまりにも気持ちが老いてしまった気がしている。

 何故書くのか。何のために書くのか。ここでも、その問いを発さずにはいられない。誰も人を不幸にするために創作などしない。創作することにはそれ固有の喜びがある。だから、大抵の作者は喜びのために何かを生み出していると言えるはずだ。私は人を不幸にするために書くのではないし、自分を不幸に閉じ込めるために筆を執るのではない。書いたもので誰かが不幸になるよりかは、むしろ幸せになってもらいたい。そう願うのは当然のことであるはずだ。

 私は勇気のために書きたい。現実で行動し、それを生きるためには、この世界に対する信頼が必要である。信頼を持つには、勇気が必要だ。ならば勇気は何処から生まれるのか。それは他に励まされることによってである。誰が、あるいは何が励ますのか。それは自分を感動させるもの達に出会うことによってだ。こうして感動の両儀性があらわになる。感動は人を老けさせるが、しかし鼓舞するものでもあるはずだ。

 「呪われた者」の声に耳を傾けなければならない。それはドゥルーズライプニッツの言葉を借りて表現したものである。しかし、この「呪われた者」とは一体誰なのか。それは憎悪以外に明晰な表現を持たない人間のことを指す。「ユダは神を裏切ったので地獄に落ちるのではない、そうではなく、神を裏切りながら、神を憎み、神を憎みつつ死ぬからである。(……) もう少しの振幅を獲得していれば、現在において憎むことをやめていれば、魂は即座に地獄に落ちることをやめていただろう。」しかし、そこで憎悪に燃えることが、「呪われた者」にとって唯一の「理性の執着」なのである。

ライプニッツが言うように、呪われた者は永遠に呪われているのではなく、ただ「いつでも呪われうる」のであって、各々の瞬間に自分を地獄に落としている。(……)彼らを地獄に落とすのは、精神の現在における狭さであり、振幅の欠如なのだ。彼らは復讐の人、怨念の人であって、ニーチェが後に描くように、自らの過去の結果を被っているのではなく、あたかも現在の、現前する痕跡と決別することができないで、毎日、毎時、それを新たに刻みつけているかのようだ。"

 これが「呪われた者」の姿である。彼らはかつての痕跡と決別できず、幾度となくそれを自らの身体に刻みつける。だからこそ呪われているというよりも、「いつでも呪われうる」。しかしドゥルーズは、彼ら呪われた人間がいなければ「我々は最良の世界を考えることなどできない」と考える。

ライプニッツ楽天主義は、無数の呪われた者に根拠を持っているが、彼らは様々な世界のうち最良のものの基盤である。彼らは可能な進歩の無限量を解き放つ。それこそ彼らの怒りを倍増し、進歩する世界を可能にする。ベルゼブルの憎しみの叫びは、下の階を震撼させるが、この叫びを聞くことなしに、我々は最良の世界を考えることなどできない。

 私自身、この「呪われた者」とも呼ばれるに相応しい人間と何度か出会ったことがある。そして彼らの特徴は、自分が別の人間になれないということに苦しんでいる点だ。まさに「現前する痕跡と決別することができないで、毎日、毎時、それを新たに刻みつけている」のである。先日(22/05/10)言及した旧友Aも、その内の一人だった。Aと私の青春は奇妙なものであった。それは、当時の私が (あるいは当時の私達が) 自分のしている事の異常さに気づかなかったからだ。Aはよくいじめの話をした。撮った動画を私に見せ、おこなった数々の悪行を私に報告した。私はそれによく腹を抱えて笑った。しかし、テレビでいじめのニュースが流れても、それが自分に関わりがあることだとは思わなかった。Aは確かに陰湿だったが、しかし彼はあまりにも楽しそうに話すので、自分が悪いことに関わっているとは思えなかったのである(恐らくAの周囲の人間もそうだったに違いない)。「自分が馬鹿なことをしていた」と気づいたのは、後になってからのことである。

 同性だけでなく、異性にも「呪われた者」と呼ぶべき人がいた。実に嫌な女だったが、しかしこんな性格の悪い奴を愛してやれるのは自分くらいだと思い上がっていた。今考えれば恥ずかしい話だ。そして、このひととの関係に悩んでいる時、ある別の女性と偶然出会った。それは美しい、人形のような女性だった。私は彼女に一目惚れした。三年前の話だ。当時はそんなに人慣れしていなかったから、思わず女性の前で挙動不審になった。おどおどして、口ごもり、自分の不格好さに苛立った。一方で、今まさに別のことで悩んでいるのに、早速目の前の女の尻を追いかけようだなんて、自分が軽薄に思えてならなかった。結局、私は一目惚れした相手を諦めて、元のひとに戻った。しかし、その後も何度それを後悔したことか。今でも思う、「何故追いかけなかったのか」と。二〇一九年一月三十一日、俺にとってはまだ昨日のようだ。私は何度もその日を思い出し、今なおそれを反復するのである。

 ドゥルーズライプニッツ論に話を戻そう。ドゥルーズによれば、ライプニッツは「進歩の道徳」を掲げる。「その度に明晰な表現の地帯を広げようと努力すること、何らかの条件のもとで可能な最大値を表現する自由な行為を生み出すように、振幅を拡大しようとすること」、つまり感じ方を拡大すること。呪われた者が何故そう呼ばれるかとなれば、それは彼らが「憎悪」以外の感じ方を所有できないからだ。しかし、彼らのおぞましい憎しみを犠牲にしなければ、考えられない世界、知ることのできない世界がある。

 我々は呪われた者を必要とする。しかしそれは進歩のためであって、彼らは「好んで自らをのけ者にする」のである。そして「彼らにとって最悪の罰は、おそらく他人の進歩に奉仕すること」だ。彼らを罰することなどできない。救うなど以ての外だ。ただみずから憎悪に留まろうとする者は、間接的であれ自分自身の手で己を罰することとなる。それは「現前する痕跡と決別することができないで、毎日、毎時、それを新たに刻みつけている」からだ。そして我々は、彼らの屍を乗り越えた上でしか最良の世界を考えられないのである。

"……何故なら最良のものは一つの結果に過ぎないからだ。そしてまさに結果として、それは <善> の敗北から直に生じる (<善>から救いうるものを救うということ)。(……) ライプニッツ楽天主義は何と奇妙なものだろう。もう一度繰り返すが、悲惨がないわけではないが、最良のものはプラトン的な<善>の廃墟でしか開花することがない。

 芸術家は「呪われた者」ではない。確かに創作に携わる人間には病んだ者が多く、ロマン派の時代以降は「呪われた詩人」ともいうべき芸術家像が定着した。そして、そのイメージは今なお残余していると言える (カフカゴッホに対するイメージがそのいい例だ) 。しかし、プルーストが高名な画家エルスチールに与えた風貌と性格からもわかるように (彼は「背は高く、筋骨たくましい、端正な目鼻立ちの男」で、人格者として主人公に真っ当な教訓を垂れる)、偉大な芸術家がむしろある程度の良識を備えた人物である場合も多い。なるほどエルスチールにも奇抜なところはあるが(彼は孤独な生活を送り、「夢みるような眼差しでじっと虚空を見つめている」)、しかしそれは彼の一部分に過ぎないのである。

 確かに、多くの天才には何処かしら狂気的な所があるのは事実かもしれない。しかし、すべての狂人が天才であるわけがない。もしそうだとすれば、今頃あらゆる精神病院はアトリエとして大繁盛しているだろう。では、天才とは誰なのか。それは狂気から何かを持ち帰る者である。たとえ病苦に苛まれ、死の淵に引きずり込まれようとも、そこから生に帰還する者こそが天才と呼ばれる。