架空の日記

 それは初めてバツを食べた時のことである。先日、友人との会話でそれが話題にのぼり、ついあの官能的な瞬間に思いを馳せた。自制心が強いからか、あるいは単に臆病な性格をしているからか、もしくはそのどちらもなのか。真実は常に不明瞭なものだが、それ以降手を出したことはない。ただ、老人が遠い過去の青春の日々に胸を焦がすように、あるいは若者がかつての恋人の面影に笑みを浮かべるように、思い出すだけで胸の奥から柔らかな感動が溢れ出す。事実、あれは私の人生において最も美しい体験のひとつだった。

 味は不味かった。効果が出たのは一時間以上経ってからだろう。徐々に身体が熱くなり、全身の感覚が驚くほど鋭敏になる。見るもの聞くものが、私を優しく撫でてくれるような気がする。ソファにもたれ掛かり、暗がりに輝く液晶画面をぼんやり眺める。ふとした瞬間にカーペットの感触や、近くに置かれたぬいぐるみの毛並みが鮮やかなまでに快いことに気がつく。ぬいぐるみを抱きしめる。こんなにも柔らかく、気持ちいいとは知らなかった。ただの物体でこれほど触り心地がいいのなら、一体人間の肌を (特に白く柔らかい女性の肌を) 触るとどうなるのだろう。スマホを握り、LINEで(実際に来るかはさておき)来てくれそうな人に連絡を入れようか悩む。しかし、「それ」をしてしまったら、恐らく取り返しのつかないことになるのではないか。結局、私は思う存分ぬいぐるみに性欲をぶつけることにした。

 目を閉じる。ヘッドホンからは音楽が流れてくる。マーラーの緩徐楽章だけを集めたプレイリストだ。指揮はクーベリック、演奏はバイエルン放送交響楽団である。身体の内から洪水のごとき快楽が溢れ出す。それに溺れる。押し寄せる悦楽の波は身体の外へ発散しようとしては消失する。しかし再び新しい官能の刺激が私を襲うのである。それは留まることを知らず、何処までもその強度を増していく。まるで全身が優しく撫でられ、痙攣しているかのよう。だから楽しみながらも恐ろしさを感じる。サイケデリックス(当時は合法だった1cp-LSDやアワヤスカ)の場合、使用から一定の時間が経過した後、徐々にゾーンへと入ってゆき、領土内をさまよいながらもゾーンを抜け出す。しかし、バツは違う。絶えず快楽は高まるが、それは知らぬ間に沈静しているのだ。だから終わった後にはおのずと物足りなさを感じる。場所、空気、音楽、身体の震え。感じ取れる一切がこちらを刺激するのに、今やそれが少しずつ弱まり、消尽しようとしている。なんて儚いのだろう。終わるのなら終わると言ってくれればいいのに。思わずこのつれない恋人に不満を覚える。

 今になってこの体験を思い出すと、それが自分に大きな傷跡を残したことを知る。それは使用してから間もなくは気が付かなかった。しかし、今ならわかる。ヘッセに『知と愛』という小説がある。「精神の人になるため修道院に入った主人公が、むしろそこで自分が官能の人であると気がつく」という内容だ。私は今、驚異的な快楽の体験を通して、自分が精神の人ではなく官能の人かもしれないという疑惑に苛まれているのだ。

 副作用なのか、それとも使用によって何かが目覚めたのか。バツが抜けてからもしばらくは女性の体が以前より魅力的に見えた。元々、私は審美的な意味において女体が好きであった。胸や尻だけでなく、目元や唇、ほっそりとした手つき、曲線を描く腰、柔らかそうな腿など、男性のそれより遥かに眺めていて心地いい。人間の死体が腐らないならば、ショーウィンドウに若く美しい女性の複製を並べて鑑賞したかった。勿論冗談半分で書いているが、まあそういうことを考えなくもない。人形のようにコレクションして、それを一列に並べることが出来たなら、絵画を収集する人と同じ喜びを感じるだろう。

 しかし、これではまるで女好きのような意見だ。私の知人友人に聞けば、身持ちについて悪い噂が一切出回っていないことを知ってもらえるはずだ。もとい、私は禁欲的な人間であることを自認している。男女問わず友人は多いが、どちらの性別にせよ友人を性的に眺めることは決してない。それは友達の恋人についても同じだ。信じてもらえるか分からないが、「これは友人だ(あるいは友達の恋人だ)」と認識した途端、相手の身体にある性的な魅力を意識しないようになるのである。目の前にある肉体はもはや日常の一部に過ぎず、胸をかきみだす官能の啓示ではない。同性の友人に性的な魅力を覚えたヘテロセクシュアルの男がいたとしよう。恐らく彼は「でも男同士だしな」と考え、相手から性的な要素を脱色しようとするに違いない。こうして相手はこちらの気分を乱さない日常の一部となるわけだ。

 友情とは社会的な感情であり、相手を自らの習慣の一部に変容させる作用を持つ。よってそれには技術が必要とされる。私は (技術的な意味での) 友情の名手だ。しかし、だからこそ不意に出現する官能の啓示に弱い。残酷なまでに胸を打つ美との出会いである。「友人」のテリトリーの外にいる者、元々知っているものが少ない場所から突如として現れた存在が、今日までの自己同一性を打ち壊す官能の鱗粉をばらまく。気分は『ベニスに死す』の主人公だ。保養地で出会った美少年から「自分に欠けていた官能的な美とヴィジョン」を受け取り、その「衝撃的な啓示」に胸が裂かれるのである。

『ベニスに死す』の主人公にも勝手な共感を寄せざるを得ない (ここではヴィスコンティの映画版に基づいて論を進める) 。音楽家である彼は、社会に生きるひとりの人間として「善く生きる」ことを、道徳的な人格者であることを求める。もとい、創作者として他人に影響を与える以上、自分のせいで誰かが駄目になるよりも、むしろ善き道を進んだ方が遥かに好ましい。目の前で自分のせいで誰かが不幸に様を見るなど耐えられない。しかし彼の友人はそれを嘲笑う。そして美の残酷さについて語り、「君の凡庸さが君自身を駄目にしている」と断言する。美は道徳的な善悪を超越した所にある。そしてそれをモチーフに創作する以上、芸術家とはある程度不道徳的な人間である、と。

 家族、学校、雇用関係、友人、など。どんなに孤独な人間も何らかの共同体と関係を持ち生きていくこととなる。社会とは力と力の関係である。そこでは一つの力が影響を受けると同時に他の力に影響を与える。よって、社会=共同体のなかで生きるならば、我々は自分がどう振る舞うべきかを考えなければならない。共同体を保つには秩序が必要だからだ。それはどんなに不道徳に見えるグループにも言えることだ。REAL-Tも「この道にはルールがあるんだなんせ」と歌っているように、半グレやヤクザにさえもルールが存在し、共同体を保つための秩序が要請される。官能的なものの最も恐ろしい点は、それが既存の秩序を打ち壊すことにある。

 官能を肯定するということは、自らの加害性を肯定するということだ。もし自分に知人なり友人なり、あらゆる社会的な関係が欠如していたならば、今頃品もなく鼻の下をのばして女の尻を追いかけ回していたかもしれない。だとしたら、今頃私は秩序を乱す、他人を不幸にしてばかりの能なしに成り果てていただろう。それよりかは、今の自分の方が遥かに好ましい。しかし同時に、このような自制心こそが現在の無気力を生み出している原因なのではないか。もしかすると自分は、「本来の自分」を抑圧することで何とか社会生活を送り、そのために「本当にやりたいこと」を遠ざけているのではないか。

 美は暴力的だ。官能的なものは残酷である。その二つは我々に認めたくない真実を啓示することとなる。何故、認めたくないのか。それがこちらの見たくない姿を指し示すからだ。「 <自然> と人間の感覚的で官能的な統一性は、すぐれて芸術の本質である」とは、ドゥルーズヴィスコンティ評の中で書いていたことだ。そして、暴力的な美が啓示する真実と、それを生きるべき人間の統一性が確保された時、そこに極めて深い苦痛が生じることとなる。何故なら、必ずしも自分がこうなることを望んだわけではなかったからだ。