22/05/26

 キリスト教徒であった頃、私は比較的熱心な信仰の持ち主であった。墓場のように暗いメソジストの教会は、私を含め、人生に打ちのめされたような顔をした人が多く集まった。夜の帳が下りる頃、日曜の礼拝堂で神にお祈りを捧げた。無論それは昼にも行われたし、参加者は昼の方が多かった (そもそも教会によっては昼しか礼拝を行わない)。けれども、私は夜の教会が好きだった。その静謐さと、暗がりに光る大きな十字架は、闇夜にともる唯一のあかりのように思えた。

 教会の牧師は優れた人格者であった。教会に集う信徒は皆、この牧師を慕い集っていたと言ってよかった。牧師は誰をも拒まなかった。悩める者には耳を傾け、ホームレスには金と食事を与えた。そして誰をも傷つけなかった。だからだろうか、牧師の顔には、いつも仮面のような微笑が張り付いていた。彼の優美な物腰に反して、そこには冷たい、氷のごとき印象が漂っていた。それは知的なものに固有の冷たさであり、硬質さと言い換えても構わなかった。牧師の思慮深そうな額と、眉間に刻まれた険しいしわは、一層強くそれを感じさせた。

 新約聖書で最も好きな箇所は、ローマの信徒への手紙第七章である。教会に通わなくなったのは、今から約四年前のことだ。それから少しづつ信仰心は薄れてゆき、今では立派な無神論者、あるいは唯物論者だ。しかし、その箇所だけは今なおよく思い出す。

 欲望は何かを知ることから始まる。「むさぼるな」と命令されなければ、私はむさぼることを知らずに生きられたであろう。それは使徒パウロが指摘する「内在する罪の問題」である。我々は正しさを知らなければその反対を望むことがない。泣かなければ笑うことを知らず、真実がなければ嘘もない。だから私は、善を知るほど悪を知ることとなる。「私は望む善を行わず、望まない悪を行っている」、パウロはそう語る。そして「もし望まないことをしているとすれば、それはもはや私ではなく、私の内に住む罪なのである」。

"私には自分のしていることがわからない。望むことを行わず、かえって憎んでいることにしているからだ。(……)私の内に、つまり私の肉には善が住んでいないことを知っている。善をなそうとする意志はあるが、それを実行できないからだ。……そこで、善をなそうとする自分には、いつも悪がつきまとっていることに気がつく。「内なる人」としては神の律法を喜んでいる、しかし私の肢体には別の法則があり、心のものと戦い、私を肢体に潜む罪の法則の虜にしている。私はなんと惨めな人間だろう。死せるこの肉体から、一体誰が私を救ってくれるだろう。

 時折、思うことがある。今の自分の退廃した生活は、かつて敬虔な信徒であった頃の反動なのだろうか。それとも自分は、元々このように退廃した人間だったのだろうか。しかし、「退廃」を語るにはあまりにも潔癖がいきすぎている気がする。様々な享楽を前にしながら、自分が不思議なまでに節度を保てていることに驚く時がある。それにしても信仰に厚かった頃の名残なのか、あるいは生来から臆病な性格をしているだけなのか、私にはわからない。

 望む善を行わず望まない悪を行っている。この問題に苛まれたパウロは、へりくだり、誇りを捨てて、神から与えられる慈悲を乞い願う。私は自力で正しくなることなど出来ない。正しさとは、ただ主イエス・キリストから与えられることによって可能になるものだ。私は救い主の存在を信じなければならない。人は信仰によってのみ義とされるが、それは信じる者が救われるからではない。むしろ救われるからこそ信じるのだ。正しさを求め、善を求めるほど、その反対のものに、罪と悪に苛まれる。ならば個人の努力とは無関係に、ただひたすら神の憐れみにすがるしかないのである。

 信仰を捨てた今、信じないから救われないでいると書くことも出来るかもしれない。しかし不思議なもので、習慣は頭で考えていることと正反対の態度を示すことがある。心痛に直面する時、教会生活の名残りなのか、私は思わず「ああ、神様」と口にする。そしてまるで、スミスの歌詞のような言葉を口にしてしまうのである。"So for once in my life / Let me get what I want / Lord knows, it would be the first time……"今日までに何度、似たようなことを口にしてしまったことか。