22/05/30

 死別して以来、昔飼っていた猫の夢を度々見る。名はララという。ララとは十年以上の時を共にすごした。習慣が事実に靄をかけているのだろうか、今でも彼女が死んだことを不思議におもう。死に際に立ち会ったにも関わらず、玄関を開ければ、今でも迷子になった彼女が帰ってくるような気がしている。

 死が近づくにつれて、ララは次第に目が見えなくなった。歩き出せば何処かにぶつかり、声をあげては近くに誰かいないかを確認した。身体はやせ細り、その白く美しい毛並みも老いた筋骨を隠しきれなかった。宝石のように輝く翠色の眼差しは、閉ざされ、目元にはめやにが溜まった。排泄も決まった場所で出来なくなり、眠る時は狭い物置に閉じ込められた。すると、今にも喉が潰れるのではないかと思うほど大きく、不安そうな声で鳴くのであった。それは寂しさに耐えられず、何処までも続く暗がりに自分以外の存在を探しているかのような声であった。私には耐えられなかった。抱き上げると、ララは健やかに眠り始めた。静かに、私の腕に埋もれながら、安らかな顔をして。

 我々の内で最も深く、また最も病的でもある愛情は、自分より深く相手のことを大事に考えてしまう性質をしている。思い出されるのは、『失われた時を求めて』の語り手が祖母と初めて電話越しに話した際の描写だ。「その時の胸を締めつけられる激しい不安は、遥か遠い昔のある日のこと、幼い子供だった私が人混みの中で祖母とはぐれた時に感じた不安と同じもので、それは祖母が見つからない不安であるより、むしろ祖母の方が私を探していると感じる不安であり、あの子はきっと自分を探しているに違いないと心配しているのを感じる不安である。私がこれからそっくりの不安を感じることになるのは、もはや二度と答えることのかなわぬ相手に、せめて生前に言いそびれたことを残らず聞いてもらいたい、こちらが病気でないと知らせて安心してもらいたいと願って語りかける、そんな日がやってきた時であろう。」

 無際限に広がりながらも、自分を閉じ込めてやまない暗がり。それに対して彼女は叫ぶ。悲痛な声を絞り出せば、誰かが自分を救いにやってくるのではないかと期待するように。永遠の別離が近づくにつれて、私は一層深く彼女を愛するようになった。それは私がララを愛していたからでもあるが、それ以上にララが私を必要としていたからであった。人の気配がないと、彼女はほとんど声をあげなかった。ただこちらが帰宅し、扉を開けた途端に、彼女は鳴き始めた。自分はここにいる、見つけてくれ、ここから出してくれ、そばに居ると言ってくれ。あたかもそう訴えかけるように、不安に枯れた喉からこぼれた。その頃、私は病んでいた。日に日に弱っていく彼女を前にして、時には煩わしいと思うことすらあった。大学受験を考えなければならぬ年齢でもあったから。しかし、もしここで突如ララと離れて暮らすことを強いられたならば、私は自分の将来を犠牲にしてでもそれを阻止しようとしただろう。

 愛情は主観性の病だ。我々がより深く愛するのは、それだけこちらの想像力を刺激してくれる相手である。そして健康的な愛情は、自らの利己心を満たすために他人を求める。よって、この時私の抱いていた愛情は非常に不健全なものであった。それは、ララが不安に苦しんでいると考えるからこそ覚える愛情だったから。しかし同時に、生涯でこれほど美しい愛情を覚えたこともなかった。自分以上に誰かを大事に想うなど、これが初めてであった。

(このように、病的なものにはそれ固有の美しさがある。そして時に、人はそのために病的なものに惹かれることとなるだろう。)

 彼女の死に際については、今もよく記憶している。その日は普段なら覚えないような胸騒ぎに駆られつつ帰宅した。何故かは知らなかった。しかし、何かある気がしてならなかった。玄関を開けると、真っ先に自室に向かい、普段ララが過ごしている物置を開けた。そこには、力なく横たわった彼女の姿があった。苦しそうな吐息を漏らし、微かに身体を震わせている。ああ、ララ。私は大きな声をあげた。しかし、次の瞬間には自分でも驚くような行動をとっていた。彼女を抱き上げると、寝床に向かい、私の傍に横たえたのである。昔はこうして、彼女を腕に抱きながら寝たものである。在りし日のように背中を撫でると、私は愛おしそうに我が腕に眠る恋人を見つめた。そして、気がつけば眠りに落ちていた。しかし眠りは短かった。十分足らずの微睡みから起き上がると、ララは既に息絶えていた。その日、私は初めて過呼吸になった。