22/06/03

 生きるとは凡庸さを受け入れるということだ。ならば、何故こうも多くの人は非凡であることに憧れ、また凡人であることを蔑視するのか?なるほど、非凡なものが特別に見えるからというのもあるだろう (だからこそ人は病的に、あるいは不幸になろうとする)。しかしそれ以上に、自らの凡庸さに悩まされながらも、他の人達が生きる世界の「普通さ」に馴染めないと感じる。だからこそ非凡さを求める人も多いのではないか。そしてその最たる例は、恐らく「呪われた者達」と呼ばれるに相応しい類の人間である。彼らの罪は、憎悪から逃れられないこと、他人を許せないことにある。

 「天才とは病気である」とは、確かトーマス・マンの言葉である。天才であること病気であることを同一視するあまり、現代では才能や技術を磨くよりも先に病人の振りをする者が増えてしまった。しかし、あらゆる天才に病的な所があるのもまた事実かもしれない。病んだ人間は他が求めないものを、とりわけ超越的なものを求める傾向にある。その指摘はニーチェおよびドゥルーズ哲学の内にも見受けられる。「真正な人は結局、生を裁くこと以外のことは望まず、より優れた価値や善を打ち立て、そうしたものの名において裁くことができる。真正な人は裁くことに飢えており、人生の内に悪を、贖うべきあやまちを見て取る。それこそ真理という観念の道徳的な起源である。」

 プラトニックな理想、宗教的かつ禁欲的な世界観は、生を裁くために発明されたものだ。実生活に病んだ者は、それを憎悪するあまり、それが示すものの反対にあるもの、現実を超越した「善」を求め、健康的なものを「悪」と見なす。よって、真正な人、誠実な人、真実を求める人は、自ずと他者を排除していくこととなる。

 それはプルーストの描く嫉妬深い恋人に似ている。アルベルチーヌの真実を把握するために、『失われた時を求めて』の語り手は彼女を幽閉する。「事物や人々を閉じ込めること、これはプルーストがよく行ったことである。それは事物や人々の色彩を把握するためだ、と彼は言っていた (茶碗の中に出現するコンブレー、部屋の中に監禁されたアルベルチーヌ) 。」真理の探求者であることの第一条件は、嫉妬深くあること、復讐心に燃えていることである。周知の通り、自分を軽蔑している人は、自分と同じかそれ以上に他人をも軽蔑している。病的な人間は、他人の凡庸さに馴染めないという凡庸さを抱えているからこそ、他人と、そして自分をも裁くこととなる。

 一方で、イデアを求める傾向にあるからこそ、幻惑されやすいのも事実である。興味深いのは、禁欲的な人と依存体質の人には、どちらも似たような傾向にあるということだ。対極に見えて、彼らはどちらも幻影に惑わされやすい。恋愛依存の女性たちには、機知に富んで、もし自分と同じくらい文才があれば、自分では決して描けないような傑作を生み出すに違いないと思わせる人々がいる。しかし彼女たちはそれをしない。そもそも教養がなく、文学に興味が無いというのもあるが、それ以上にもっと直接的な快楽を求めているからでもある。この場合、「快楽」とは通常の意味と少々異なる。ドゥルーズプルースト論で指摘していたが、エロスとは共振の作用である。自分と共振するものと出会った時にこそ、我々は深い官能を感じることとなる。

(友情を蔑ろにして恋愛に走る人が一定数いる。それは、友情が社会的な感情であり、秩序に服することを求めるからだ。ラ・ロシュフコーの指摘に次のようなものがある。「大部分の女が友情にほとんど心を動かされないわけは、恋を知ったあとでは友情は味気ないからである。」三人以上の人間が集団を形成するためには、お互いの差異よりも全体の調和が必要とされる。互いに異なる点よりも納得し合える点を重視し、共通項を築き上げる (でっちあげる) ことで居心地の良さを醸し出すという点で、友情には社会的な性質がある。ならば恋愛は、互いの差異をむき出しすることにその特徴がある。それを踏まえるならば、官能を求めるとは、全体の調和を崩してでも自と他の差異を追求することである。よって、官能的なものにはそれ固有の反社会性、暴力性が備わることとなる。)

 たとえ作品を生み出したとしても、「知的で頭脳的すぎる」が故に、どうしても傑作とならない場合がある。ある人の美しさは、当人がそれに気づいていないからこそ一層深い輝きを持つ。一つの作品の魅力は、その作者自身にはわからないものだ。しかし呪われた者には、その真実を求める性格故に、自らの作品を徹底して理論武装しようと試みる場合がある。一字一句に至るまで自己と作品を正当化しようとするわけだが、彼らにはそのこだわりが作品を駄目にしているということがわからない。あらゆる芸術作品が身体的なもの 、感覚に直接訴えかけるもの、官能的なものであるということに気が付かないのだ。

 なるほど理論武装する者の誰もが傑作を生み出せないというわけではない。しかし時には、理屈も捏ねず、純粋に優れた作品を生み出す人がいるのも確かだ。しかしその内罰的な性格ゆえに、呪われた者はみずからを罰してやまないのである (病的な人間は、自分を裁くか、さもなければ他人を裁くか、そのどちらかに精を出さずにはいられない)。そして自分を軽蔑しているからこそ、自分を褒める人間が馬鹿に思えてならないのだ。ご存知の通り、我々が予測する他人の感情は、どれも我々自身のものの反映である。

 果たして誰が今ある個性を望んで授けられることだろう。自分の意志でこの世に生まれた者など何処にもいない。天才であれ凡人であれ、病的な人間にはそれ固有の特徴があるが、それを自分で喜べる人間はごく僅かである。むしろ大抵の病人は、自分の馴染めない「他者の世界」を憎み、あるいはそれに馴染めない自分自身を嫌悪することとなる。よって、彼らは一つの事しか望まない。消尽すること、ただそれだけだ。たとえ自殺しなくとも、自分を忘れさせるものに依存したり、それに耽溺したりすることで、他者なき世界に到達しようとするのである。

 一体どれほどの人が、自分で作った迷路から抜け出せず、絶えず同じ所に頭をぶつけていることだろう。人によっては、それを死ぬまで繰り返すかもしれない。その間も、彼らは自他を責めることをやめない。しかし、何故自分の間違いに気づけないのか。呪われていることに、罪深いことに気づけないのか。それは、自分を心底から悪い人間だと思えないからだ。後悔することができないからだ。呪われた人間の最大の特徴、それは罪悪感を覚えることが出来ないことにある。そして、だからこそ一層深く自分を責めることになる。他人が負い目を感じることに何も思わないことは、それゆえ益々劣等感と疎外感を刺激するものだ。そして益々自分と異なるものへの憎悪を深めていく。

 しかし、誰がそれを責められよう。そもそも、このように「呪われている」としか言いようがない人々について語る私自身、彼らと同じように罪深く、呪われた人間ではないと、どうして言い切れるだろうか。実際、呪われた者とそうでない者を区別する基準など無に等しいのではないか。ディレッタントの多くは、他人が喜びを覚えるものに馴染めなかったからこそ、逃避するがごとく芸術一般を愛するようになったに過ぎない。もし「皆」 の仲間入りができるならば、今すぐ本を閉じ、楽譜を破いて社会の一員になるだろう。一方で、研究なり創作なりというものは、ある程度人生に飽きた者でなければ没頭できないのも事実である。ただ現実に飽きた人間だけが、それを革新する能力を身につけることができる。

"……神経質な人の場合、いわゆる「感受性」が強い人のほどその利己主義も増大する。そんな人達は、自分自身の不快感がますます気になる最中に、他人の不快感を見せつけられるのが我慢できないのだ。"