22/06/11

"Cause if we knew where we belong
 There'd be no doubt where we're from
 But as it stands, we don't have a clue
 Especially me and probably you"

 知的であろうとすれば、人は何かしらの形でスノビズムに陥らざるを得ない。知らないものについて語ろうとすることにこそ、知性の発展があるからだ。しかし、それで何も生み出せなければ「知ったかぶり」か「気取り」で終わることになる。ならば、こう言い換えてもいいだろう。スノッブであるとは知性に固有の罪であると。実際、誰がスノビズムから逃れられよう。恐らくは農夫のように素朴で、余計なことを考える必要のない人達のみがそれに当てはまるかもしれない。知的であるとは余計なことを考えること、暇を持つことに他ならないのだから。

 気取り、見栄、知識のひけらかし、あるいは知ったかぶり。これらはスノビズムの特徴だが、何故スノッブな人達はそのように振る舞うのか?理由は二つ考えられる。一つはただの人間であることに耐えがたさを感じるからだ。相手にそのつもりがなくとも、こちらには自慢話に聞こえる体験がある。他人の恋愛話を聞いていると、向こうにその気がなくとも勝手にこっちが僻んでしまう場合がある。それと同じで、相手が知らない本について話をしたら、自分にその気がなくとも向こうに「マウントを取っている」と思わせてしまうことがある (だから社交の場では知識にまつわる話がご法度とされる)。あるいは、相手が嬉々として話している事柄を自分が知らなかった場合、相手の話の鼻を折りたくないから、ついつい自分も知っている態で頷いてしまう。何にせよ、自分にない知識や体験を相手が所有していた場合、人はそれに劣等感を覚えやすいのである。特に自分の知らない喜びを味わっている者に対して、我々は嫉妬を覚え、それを禁止したい欲求を持つ (これらルサンチマンの発作から解放される唯一の方法は、何らかの形で相手が自分と同じくらい欠陥を抱えていると知ることである)。

 スノビズムが発生するもう一つの理由は、最初に書いた通りである。つまり、知性は自分の知らないことについて語りたがるのだ。それこそ知性に固有の情動だと言える。一つの本を読んだ影響で、それまで語らなかったことを口にしたり、決してしなかった行動に走ったりすることがある。たった十ページしか読んでない哲学書に影響されて、適当な言葉を口走る若者が、一体どれほどいるだろう (哲学書が不道徳であるのは、それを読むと本人もよくわかっていない言葉を大声で語りたくなるからだ)。小説や漫画においても同じような例は沢山ある。エマ・ボヴァリーは自分自身を覗くようにして小説を読む。本で読んたような恋愛を実人生でも求めるが、その先にあるのは夢と現実の乖離、理想と実際の違い、それがもたらす幻滅である。フィクションの美しさがあまりに印象的であったために、それを真実だと思い込んでしまう。現実で物語と同じように振る舞い始めるが、結局どれも空回りに終わる。そしてひとり勝手に破滅していくのである。このような人間が一体どれほどいるだろう。

 しかし、本が与えるこれら「情動的影響」とも呼ぶべきものは、決して悪いことばかりではない。知らないことを語ろうとするからこそ生まれる発見が、この世にはあまた存在するからだ。「自分が知らないこと、あるいは適切に知っていないことについて書くのでないとしたら、一体どのようにして書けばいいのだろう。まさに知らないことにおいてこそ、必ずや言うべきことがあると思える」とは、まさにその通りである。知的であろうとすることは、知らないことに顔を突っ込むことに他ならない。実際、自分自身の深淵を覗く以外に、いかなる読書が可能であるだろう?たとえ十ページしか読んでなくとも、そこには大きな発見があるかもしれないし、フィクションのおかげで可能になる現実生活もまた存在するに違いない。思考のフロンティアを開拓するためには、多かれ少なかれいい加減なことを口走らなければならないのである。それこそ知性の実験的な側面だと言える。

 スノッブ(気取り)、キッチュ(俗悪)、ルサンチマン(怨恨)は、我々にとって避けがたい性質として現前される。我々はそれに抗わなければならないが、同時にある程度受け入れなければならない。「個人の狂気は稀だが、大多数は常に狂っている」とはニーチェの言葉だが、彼は事実を語っていた。いつの世にも時代の批判者というべきものが存在するが、それはいつの時代も世の中の大半の人間が馬鹿だからだ。無論、それは私にも当てはまる。時には自分の間抜けっぷりに死にたくなることもあるが、この愚かさを援用しなければ開拓し得ない世界もあるのかもしれない。


 もっと創作活動に力を入れたいと思っているが、どうすればいいかがわからず懊悩する日々が続いている。私も二十五だ。ベートーヴェンによれば「男のすべてが決まる年齢」になる。彼の予言が実際に当たっているかはわからないが、それに焦りを感じないと言ったら嘘になる。

 創作活動に熱を入れたいと思う理由がもう一つある。それは、現実に飽きてきたということだ。まだ二十半ばの若造がこう語るのもおかしいかもしれないが、結構色んなことに飽きてきた。それに比べると、音楽や文学はすごいなと思う。歴史が長いだけあって、いくら触れても飽きない。まともに働いて生きていく将来も見えないし、自分にはこれしかないと思うが、どう翼を広げればいいのかがわからない。たとえ翼があったとしても、使わなければ広げ方を忘れてしまう。再び飛べるようになるまで、何度も地に落ちることになるかもしれぬ。考えるだけで気の遠くなる話だ。

 この「現実への飽き」は、別に最近になって感じ始めたものではない。ここ数年来、度々私を襲ってきたものである。しかしその都度「人生、やはり捨てたもんじゃないな」と思い直す機会を得た(もとい、そう思い込もうとしただけかもしれない)。それも結局、自分自身の倦怠から目を逸らし、ずるずると習慣を引き摺っていただけなのかもしれない。結果として今のようなくすぶりが持続しているならば、かつて何度も襲ったこの「飽き」の感覚は間違っていなかったのではないか。私は生きることに飽きてしまった。もうずっと前から飽きているのかもしれない。エルスチールのように、保養地にアトリエを持ち、そこで隠居するように妻と暮らし、時折通りすがる子供たちにちょっかいを出す生き方が理想的だ。しかし、実際の私はそれから遠く離れている。