22/06/15

 人は現在の都合によって過去の解釈を変化させる。大抵の場合、何かが好きだと公言することは、それによって自己を保とうとすることの表れである。ついこの間まで恋人への愛を声高らかに語っていた女性も、もっと感じのいい男が目の前に現れればそちらに気を取られてしまう。その男性と結ばれたら、途端に「彼氏」だった者の悪口を語り出すだろう。自分をいかに偽っていたかに気づき、次こそ「真実の愛」に目覚めたと信じて疑わない。しかし、そのせいで似たような愚行を繰り返すとは露ほども思わないのである。そう遠くない未来に、彼女はまた同じことを語るだろう。「自分は間違っていた、ついに真実に目覚めた」と。

 決してそれに該当する人々を責めるつもりはない。私にしても同程度の「しょうもなさ」を抱えているから。もとい、我々はそれぞれ (程度は違えど) 異なった「しょうもなさ」を抱えていると言っていいだろう。しかし、普段はそのことに気づかないのである。実際、どうすれば当たり前と思っていることの異常さに気づけるだろう?自分の欠点には目を瞑るが、他人のそれには異様に厳しい。あたかも自分が同じ「しょうもなさ」を抱えていないかのよう。しかし、それに怒れるほど立派な人間ではないということがどういうわけかわからない。我々の大半はそんなものである。

 同様のことは「不幸の演出」にも言える。他人の注意を引くために悲劇的な振る舞いをするが、いざ誰かが似たような不幸の演出をする様を見ると、それに引いて顔を背ける場合がある。誰かが勝手に設定した舞台に酔っている様を見ると、不愉快で仕方ない。自分は楽しくない時間をこれほど多く過ごしたのに、同じような苦痛を通らずヘラヘラしている人間が許せないのだ。よって、可能であれば相手を困らせたいと願う。それは今日までの苦しみのツケを支払わせるためであるが、いくら困らせてもそれが足りないように思えてしまうのは何故だろう。不思議なもので、意地悪な態度というのは、すればするほど益々したくなる。自分が感じたと思う「楽しくない時間」は、それほど多くの代償を求めるのだ。

 情熱に燃えたり、感傷に酔っている様は、ともすれば間抜けに見えがちである。それは我々が冷笑的なものをより頭脳的だと見なしやすいからだ。気の利いた皮肉の言える人、意表を突く冗談を口にする者は、それだけ頭がいいとしてもてはやされる (我々は話が上手い相手をそれだけ頭がいいと思いがちである)。実際、自分は冷めていて、陰鬱な感情に苦しめられているのに、目の前で不可解なほどドラマチックな振る舞いをし、身勝手にも自分を相手の舞台のヒロインなり王子様なりに仕立て上げる様子を見たら、誰しも相手を馬鹿だと思わざるを得ない。何故こんな間抜けに付き合わなければならないのかと辟易するだろう。

 しかし、そうやって他人を見下しがちな者が、同じような「しょうもなさ」を抱えていないと言ったら嘘になる。得てして我々には自分が演じたい役柄があり、それを実現してくれる舞台を切望しがちである。他人の不幸に愛着を覚えることがあるが、それは相手が「可哀想」なおかげで自分の欠点をゆるされるような気がするからだ。筋肉質で快活そうな者よりも、痩せ細い病弱そうな方に惹かれる人が多いのはそのためである。我々は弱そうな相手にほど心を許しやすいと思う。物憂い恋物語から感傷を汲み取るように、自分が美化される不幸の内に居場所を見出そうとするのである。

 社会とは力と力の関係である。そして、それは友情や恋愛のような密度の高い関係にも同じことが言える。自分の思惑通りするため、不機嫌になったり、怒ったり、あるいはその逆に媚びをへつらったり、愛想良くしたりする人が、一体どれほどいるだろう?もし実際に主導権が握れたとしても、そのために相手に優しくすることなど決してなく、むしろある程度「たかが知れた」からこそ、より傲慢な要求をするようになるだろう。

 これらは総じて「人間のしょうもなさ」として断ずることができる。しかし、一体誰がこれを責められよう。果たして少しでもこれに当てはまらない人がいるだろうか。それこそイエスの語った有名な言葉、「罪を犯したことのない者だけが石を投げろ」である。我々の有罪性は避けがたいものだ。贖罪を求めればいいというのではない。むしろ絶対的な「正しさ」を求めるほど、益々他人を裁き、自分さえも裁くようになるだろう。彼らの行く先にある願望はただ一つ、消尽すること、それだけである。

 我々に求められているのは、自らの有罪性を乗り越えることだ。しかし、それは償いによっては生まれない。穢らわしい世の中から少しでもマシなものが生まれるためには、むしろ自分の「しょうもなさ」を一旦認めて、他人の凡庸さを受け入れていく必要がある。そうして互いに受け入れあい、赦しあうことで、初めて立つことの出来るスタートラインがあるのではないか。確かにそれは傍からすれば傷の舐め合いに見えるかもしれない。しかし、今よりマシなものが過去か未来にしかないのだとしたら、先ずは自他の「しょうもなさ」を受け入れるしかないのではないか。