22/06/19

 暗い感情にはそれ固有の優しさがある。時に人は、自らをいざなう甘い憂鬱に酔うこともあるだろう。絵の具がこぼれ、次第に空を染める紅色のよう、胸の内からは悲しみにも似た喜びが溢れ出る。じんわりと、じんわりと。今、心臓は夕闇に沈む。海に溺れながらも、なんの息苦しさも感じないかのように。憂鬱は人を安心させるのである。私は暗い音楽が好きだが、その理由の一つとして「安心したい」というのがあるに違いない。血は凍ってゆき、鼓動は落ちていく。目は座りながら、顔から表情が消えてゆく。その時、死の安息にも似た心地良さを覚える。優しい憂鬱を求め、何度音楽を再生したか。それは「今日までに食べたパンの数を覚えていない」のと同じである。

 血の騒ぎを鎮めた時、癒しを知ることができる。傍から見れば、それは現実逃避を求めているように思えるかもしれない。しかし、丁度疲れた人が眠りを求めるように、私はただ眠らずに見る夢を求めているにすぎない。実際、音楽を聴きながらボーッとしている時ほど癒しを感じる瞬間はない。確かに読書の際にも似たような印象に襲われることはある。たとえば次の描写に出会った時だ。「あの時、グランドホテルのボーイたちはテーブルの食器セットを並べながら夕陽の光に眩しそうにしていたし、すべて開け放たれたガラス窓を通して、夕べのほのかな微風が、散歩する最後の人たちが残る浜辺から、夕食をとる最初の客がまだ席についていない広いダイニングルームへと自由に流れていた……」

 実生活でこのような癒しを得ようとすると中々難しい。我々は何らかの意味において反動的であり、自らをルサンチマンと切り離すことができないからだ。こちらの感じているものが向こうにないと知った時、それだけで不満を覚えることがある。対象の不在に悩んだ後、そのものが到着したからといって苦悩が解決するわけではない。むしろ苦悩は解消されても後を引くことに特徴がある。たとえ望んだものが得られたとしても、苦悩の残り香はむしろ相手を困らせたいと願うだろう。結果として望んだはずのものが絶えず先延ばしになり、また悩み苦しむ時間が増えることとなる。同じことの繰り返しだ。

 嫉妬に燃え、執着心から互いを陥れ合う物語は、読む分には面白く、刺激的に思える。私もそういう小説は好きだ。しかし、その舞台に立ちたいとはあまり思えない。いつまでもツンツンして、互いにギスギスしていたら、得たいものも得られない。どんな関係であれ、時には猜疑心から「苦しみを注ぎ込む」こともあるだろう。しかし、常にそれでは疲れてしまう。ヘトヘトになり、何を望んでいたかすら忘れるであろう。それでは本末転倒だ。むしろ、我々に必要なのは穏やかな癒し、死のごとき優しさを含んだ安息なのではないか。やや宗教的な言い方になるが、私にはそういった、より深い愛が存在すると信じている。